「それより役に立ちそうなサイトがあったよ」
週末の狩りに備えて“ゴーストフェイサーズ”のサイトを読み返していたら、隣からウェッソンが手を伸ばしてきた。
「へえ?」
返事も聞かずにキーボードを叩く図々しい男を見逃してやりつつ、ディーン・スミスは迷いなく長いアドレスを打ちこむ指を見つめた。
ずいぶんと慣れた手つきで開かれたサイトは、なにやら難解な文章だらけだ。
「……これはどう見ればいいんだ?」
古い本のものらしい幽霊の図がいくつか掲載されていたが、どうやって退治したらいいのかといった具体的な記述は見当たらない。
「幽霊の基本的な倒し方は同じだよ。塩と鉄で防いで、遺体か遺品を焼いて清める」
だからハウツーにはこだわりすぎない方がいい、そう言いながら図を拡大する。
「だけど、幽霊と思っていたら違う相手っていう場合もあるからね。その場で慌てないように予備知識はあった方が良いと思うんだ」
「なるほど」
一定のルールで現れる単純な幽霊もあれば、特定のパターンに当てはまる時にだけ現れる霊もある。特定の場所から動かないものもあれば、追ってくる奴もいる。
「最初に悪霊だと思っていた霊が、実はもっと性質の悪い霊を抑えていたり、警告のために現れている場合もある。だから時間の許す限りリサーチは必要だ」
「なるほどな」
ディーンとしては普段の仕事と両立することを考えると、一日で片がついて一日は休みが取れるような、単純な幽霊だけで手一杯なのだが、サイトを見ながらのウェッソンの解説は随分と噛み砕かれて分かりやすかった。
「君はこの一週間で随分と進歩したんだな」
思わず感心して隣を振り返ると、間近にウェッソンの顔があった。
しまった、と一瞬思ったが、ウェッソンがそれ以上距離を詰めずに説明を続けたのでホッとする。
パーソナルスペースはきっちりしている方なのだが、どうもこの男相手ではそれを忘れることがしばしばあって、初対面の時から誤解をさせてしまいがちだった。
おかげでここのところかなりぐいぐいと迫られ、今日も泊まっていくと言われたらどうしたものか悩んでいる。絶対に御免だというわけではないのだが、ウェッソンからのアプローチが急すぎて、もう少しペースを落としてほしいのが正直なところだ。
大の大人がキスから先に進むのに腰が引けているなんてのはお笑い草だが、年齢や社内での立場やこの先の不透明さなど、大の大人だからこそ気にしなくてはならないことは色々あるのだ。
一方のサムは困惑していた。
下らな過ぎる仕事を続ける気が全くしなくなり、コールセンターの端末を腹立ちまぎれに粉砕していたら不意に頭がはっきりした。
(何をやっているんだ。)
自分はウェッソンなんて名前ではなく、サム・ウィンチェスターだ。コールセンターのアルバイトはもちろん本業じゃなくて、魔物を狩るハンターだ。しかも終末が来るのを防ぐため悪魔たちとの戦争の真っ最中だ。よくあることだが、また何か敵の罠にはまっていたらしい。随分時間を無駄にしてしまった。
そして、困ったことには兄であるディーンも同じような記憶を塗り替えられた状態で、しかも自分は正気に返ったのに、ディーンの方がさっぱりだった。
あれこれ解呪を試してみたが、なかなか正気に返らず、今もビジネスマン生活を続けている。
「幽霊以外にも魔物はいるんだ」
そう言うと驚いたように振り返る。その顔が近くて危うく触れそうになった
ディーンは一瞬驚いたように目を見開いたが、サムが仕掛けないのを確認すると少しホッとしたように目元で笑い、説明を続けるように促した。
(どうしよう)
リリスを倒して終末を防がなくてはいけないのに、相棒である兄が単純な幽霊で手一杯な状態なのも問題だったが、こちらもどうしたらいいのか分からなかった。
「君は一週間で随分進歩したんだな」
感心したように言われて、脱力しそうになる。
あんたがまるっと忘れてるだけだよ。
心の中の声はもちろん相手に届かず、ディーンはサムが先ほどの接近で迫らなかったことで安心して、逆に距離が近くなっている。
(どーすんだこの状況)
(だって仕方がないじゃないか、記憶が無かったんだから)
サムは自分でつっこみ、自分で弁解する。
気が付いたら実の兄に迫りまくっていたというのは頭痛ものだったが、その努力が今や実を結びかけているのも大問題だった。
気が触れてうっかりしたが、正気に返ったんだから止めればいい、というのは簡単だが、あっさりそう言えないのには訳がある。
ひとつには迫っておいてなびかれたところで引いたら、このいかにもプライドの高そうな男がキレるかもしれないということ。
そしてもうひとつには実のところこの兄に対しては、正気なときからそういう意味合いの感情を持っていたからだ。
もちろん正気だったら絶対にやらなかったが、やってしまったものを取り消すのはちょっと惜しい。
さらに言えばこの変な状況に陥る前の二人の関係は良好とは言い難かった。
ディーンは悩んでも仕方がない理由で荒れ、サムに対しても否定的な見方ばかりしていた。深刻な言い争いも増えていた。
だけど今、目の前にいるディーンは無意味な自己嫌悪など忘れて幸せそうだ。まともな部屋に住み、清潔な服を着て、高給取りのビジネスマンとして暮らしている。何がどうなったら兄の頭にマーケティングなんてものが擦りこまれたのか不思議で仕方がないが、こっそり覗いた仕事の書類はきっちりまともなマーケティング戦略だった。
忘れられるのは困るが、うっとうしく落ち込まず悩まず元気な顔が見られるのはいい。自分が弟だということを忘れているのは大問題だが、他人と思っても自分の方を向いてくれるのは嬉しい。そして他人だからこそ受け入れられるのだとしたら、そのチャンスを逃すかどうか。
サムの心は世界の心配と兄の正気への心配、そしてちょっと諦めづらい私利私欲で揺れていた。
ディーン・スミスはマーケティング部の部長だ。当然ながら給与が高い分仕事も多い。基本的に仕事は朝型だが、やむを得ない場合には残業もする。
早朝作業のようなスパート感は無いが、夜のオフィスは考えごとに向いている。電話もならないし話声もしない。自宅と違ってつい気が散るような本もない。何よりあとの予定がないのがいい。
資料をデスクに広げ、今後の展開を考え込んでいたディーンは、ふと耳に入るラジオの違和感に顔を上げた。軽快な音楽に掠れたような呻き声が混じっている。
「………」
気にし過ぎだ。
そう思って書類に目を戻すが、唐突に廊下や外の暗がりが気になりだす。
もしもこの間のような幽霊が現れたら?
不意に心拍数が上がってくる。手元にあるのはペンだけだ。サイトでさんざん調べたのに、塩も散弾銃も鉄も用意していない。
(待て、落ち着け)
すっかりマーケティング戦略ではなくなってきた頭で自分に言い聞かせる。耳はすっかりラジオにロックオンされてしまったので、諦めて意識をラジオに向けることにした。意味不明のうめき声も、歌詞が分かればどうせ他愛もない内容だ。さっさと解明して仕事を進めた方が早い。
だが数分後、呻き声がまったく分からない言語であることを確認したディーンは顔を強張らせて携帯電話を取り出した。
文字制限に引っかかったのでちょっとだけ続きます