最後の一線まで大盤振る舞いしながらの、兄の「弟の呪いを解こう」奮闘は続いていた。
一度切りで済むなら、それこそ犬に噛まれたと思って忘れることもできるが、毎日毎日付き合ってやっても、がぶがぶ噛まれた(心理的)傷痕が増えるばかりで、弟はちっとも正気に返らない。
居間で銃の手入れをしていたディーンがふと目を上げると、ちょうどパソコンに向かっていたサムも目を上げたところだった。
視線が絡むとちょっと目で笑い、作業に戻る。
(なに、満ち足りちゃってんだお前)
いや、足りてないのか。解けてないんだから。
それでもここの所、サムのまとう空気はひどく柔らかく、甘い。
むずがゆさを無視して、分解して掃除を終えた銃を組み立てる。
ふと、目を上げるとパソコンを閉じたサムが、近づいてくるところだった。
「終わった?」
「おお」
銃を置くと、そっとサムが目尻に唇を落としてくる。引き寄せる腕に逆らわず、ディーンはソファから立ち上がった。
※ ※ ※
いい加減、借家の期限を延長するか真剣に考え出した、朝だった。
「ディーン?」
目を開けた瞬間に分かった。
ああ、『弟』だ--
「よぉ、気がついたかサミー」
やっと弟がかえって来た。
隣に転がって目をぱちくりさせているサムに向かって、ニヤリと笑ってやる。
喉がかすれて声が出づらいが、サムが戻った時の最初の態度は重要だ、とディーンはずっと思ってきた。
弟を安心させてやるために。
兄らしく。
「何があったんだ、ディーン」
サムは眉間にかすかに皺を寄せ、でも顔一杯に「不安です」と書きながら、きょろきょろと室内を見回している。
「お前、敵のスペルに引っ掛かったんだ。覚えてるか?」
「うん。・・・・ディーンが運んでくれたの?」
「ま、そんなとこだ。お兄様に感謝しろよー」
「・・・thanks」
面目ないというような、ちょっとふてたような表情。
そうそう、うちのサミーはこういう奴だ。
「・・・ところでなんで一緒に寝てるの?ダブルベッドで」
それはにーちゃんがここしばらくずっとお前に言い続けていた台詞だよサミー。
「あのな、落ち着いて聞けよサミー。あの日から結構時間がたってるんだ」
そしてそれからしばらくディーンは、数ヶ月に渡って記憶がすっぽ抜けていることを知りパニックになる弟に向かって、記憶を無くしている間に大量殺人したり悪魔の手先になっていたりといった行動はしていなかったことを懇々と言い聞かせることになった。
「本当に・・・?僕は本当にどこかに失踪したり、誰かを傷つけたりしてないのか?」
「おまえしつけえ!! 記憶がすっ飛んでる以外はしごくまともだったって言ってんだろうが」
「ディーンだって、24時間僕を見ていたわけじゃないだろう!?」
「ああそうだな、俺がお前の半径5メートル以内にいたのは、お前がポカしてからせいぜい1日のうちの23時間くらいなもんだからな!」
怒鳴りすぎて、ただでさえ最近酷使しがちな喉がかすれる。
「俺の言葉が信用できないならボビーにも聞いてみろ」
言い捨てて、ベッドに座り込んでいる弟を放置して洗面所に向かった。
うがいをしながら、ディーンはついでに鏡でざっと自分の身体をチェックした。
幸い、サムが気がつくような痕はついていない。
一線を越えてからこの方、そーゆー場では野獣化する弟にかなりいいようにされたが、このことだけはなんとか守らせるのに成功したらしい。
グッジョブだ俺。
喉は酷使されて掠れている。
(嫌だっつってんのにしつこくしやがって)
ふと、数時間前のことが頭をよぎる。
足の先から頭の先まで、突き抜ける感覚。
どっかから聞こえる悲鳴だか泣き声だか、ありえない音。
ねじ込まれる舌に、息がつまり、歯を食いしばろうとしてもかなわない。
(つかまって、ほら)
容赦なく己を暴く手とちぐはぐな、あやすような声。
力一杯掴んでも揺らぎもしない身体。
ゆらゆらしてにじむ。
部屋の明かりも天井も、サムの顔も。
(ディーン)
繰り返し、ささやかれる声。
何となくわかった。
最後の一線をこえ、ますます目も当てられないほどスキンシップ過剰になった弟にもみくちゃにされながら、昨日ディーンは少しだけ思ってしまった。
このままでもいいかと。
(さすがだサミー。よく気がついたな)
それがサムの最後の不満だったわけだ。
ディーンは首を振り、ついでに頭から水をかぶる。身体があちこち痛い。
「くそったれ・・・」
思わず、声が漏れた。
(てめーはベッドの外と中で態度が違いすぎだ。好きだの愛だの大事だのいうなら、少しは年長者を労われ。俺の負担を考えろ)
文句を言う相手はもういない。
ディーンを陥落させて、満足して、消えた。
(・・・・・・・ダッド、なんだか俺、ちょっとだけ落ち込んでるみたいなんだけど)
顔を拭きながら、父の姿を想像して訴えてみる。
・・・・・無言でゲンコツが頭に降ってきた、ような気がした。
いや、これでいいんだ。当たり前だ。
目的達成。解呪成功。
よくやったぜディーン・ウィンチェスター。
未練を残した霊を満足させて成仏させたとでも思おう。うん。
バタバタと近づいてくる足音に、成仏した霊(?)のことを頭から振り払う。
「ディーン!ここなんなんだ?どこなんだ?」
ボビーに電話を終えたらしい弟が、次の「なぜ」「なぜ」質問を山ほど抱えてやってきた。
※ ※ ※
「どうだ?」
聞き込みに行っていたサムと、バーで落ち合う。
例の家は引き払い(ペアカップだのなんだの、怪しいものが多すぎる)、兄弟はまたモーテルを渡り歩く暮らしに戻っていた。
サムもやっと記憶のない期間の自分が、ハンターを殺して回ったり、他人に害を及ぼしたりしていたわけではないことを納得したらしい。
“療養生活”に入る前に、ある程度仕事に区切りはつけていたので、今はサムが状況を把握するためのリハビリといったところか。
幸か不幸か、こんな時に限ってなかなか仕事の対象になりそうな噂も聞かない。
ディーンは慎重に「男夫婦」が通った町やモーテルは避けつつ、移動を繰り返していた。
店に入ってきたサムは肩をすくめて首を振る。
「はずれ。同一犯の犯行みたいだ。少なくとも僕らの領域じゃないね」
「ふーん」
飲むか?とビールの瓶をあげて見せると、頷いてカウンターへ歩いていった。
ディーンの後ろを通って。
スカスカする。
最近、いやおう無く「夫」に慣れていたせいか、『キス魔』でも『ハグ魔』でもなくなったまともな弟が、こんなに自分の傍を素通りする奴だったのを忘れていた。
そして、ディーンは、夜のあーだこーだを除けば、弟とのスキンシップに関しては過剰でも一向に構わなかった自分を自覚する。
サムが最初の衝撃から立ち直った頃、相手が来ないなら自分が構ってやれと思ったディーンだったが、『まとも』になった弟はちょっと頭を撫でてやろうとしただけで「やめろよ」としかめ面で振り払う。
(ボビー、うちのサミーは恩知らずだ。あんだけ俺に苦労かけたんだから、頭くらい撫でさせてもいいと思わないか!?)
生身のボビーに訴えると、ますます気苦労をかけるので脳内でぼやくにとどめたが。
大丈夫。諦めるのは得意だ。昔から。
カウンターで注文を待っている弟の背中を見ていたら、お呼びでないおっさんや野郎が「さみしそうだね」だの「おごらせて」だの入れ替わりワラワラ寄って来た。最近妙に多い。断りも無く尻を撫でようとする奴までいるので、遠慮なくぶん殴る。
可愛い弟は兄ちゃんが手を伸ばすと怒るのに、いらん野郎が触りに来るのだけが増えたなんて理不尽だ。しかしながら兄ちゃんの「恩」に関しては、弟にもすっぱり忘れて欲しいことが(特に後半)多いので、主張することもできない。
ああ、早く忘れたい。
席に戻ろうとしたサムの視界で、ディーンが男を殴り飛ばす。
さっきからしつこくディーンに纏わり付いてた奴だ。
何故だか最近、格段に増えた厄介事。
ぽっかり空白になった期間があるというのは、どうしても悪魔に乗っ取られていた時のことを思い出して不安になる。それでも、今回はずっと自分の傍にディーンがいて、見張っていてくれたことが安心だった。
誰を殺してもいないし、犯罪を犯してもいない。
ディーンは「心配するな」としか言わないが、それではその期間、自分は何をしていたのだろう。気がついたときには狩りもしないで、小さな家でディーンと二人でただ暮らしていた。(ダブルベッドで寝ていたのには仰天したが、それだけ自分が目を離せない状態だったようだ)
気がついて呆然としているうちに、起きだしたディーンが朝食を「作って」くれて、しかも(作り置きだったらしいが)野菜スープなんてものまで出てきて、これはもしかしてディーンが前にひっかかったジンの「理想の世界」という奴なのではないかと疑ってしまったものだ。
その疑いもディーンの
「アホ。狩りを休んで小さな家で犬でも飼って平和に暮らしたいなー、とお前が言ったから、優しいお兄様が療養のために用意してやったんだ」
というコメントで氷解したが。
そもそも自分が気がついて2日もしないうちに、ディーンはその家を引き払った。どうも短期間の賃貸だったらしい。理想の生活をチラ見せだけして引っ込めるなんて、ジンの夢なら多分無いだろう。
あれこれ思いつつ席に近づくと、ディーンの横にはまた別の男が近づいている。
ウンザリした顔を隠さないディーンだが、相手が怯むほどの怒気は見せていない。
むしろ、顰められた眉や、きつい、でもいつもほどの覇気のない目元に、相手の男が舐めるような視線を当てているのがわかる。
(なにやってるんだディーンは)
なんだか無性にイライラして、混んだ店内で足を早める。
目が覚めて以来、ディーンといるちょっとした合間に、微かにディーンが何かを待っているような気がする。
それがなんなのかわからないが、旅を再開してこの方、ディーンが妙に男にまとわりつかれることが多くなったのは、多分、前にはなかったそのちょっとした隙のせいだ。
サムがどうしていいかわからないというのに、知りもしないどこかの男達がディーンに寄って来る。ディーンがウェイトレスにデレデレしているのを見るときと、微妙に違うイラつきがあった。
(ディーンが追っ払えないなら、僕がやってやる)
まだ、ディーンの横から離れない男と、ディーンの間にぐい、と割り込む。
まっすぐに、男の目を見て言ってやった。
「離れろ。この人は僕のだ」
沈黙。
男は速やかに去っていったが、サムは固まった。
なんて言った、今、僕の口。
「・・・なに言ってんだお前」
呆れたようなディーンの声。振り返るのが怖い。ギギギ、と首がなるような気分で兄の顔をうかがう。思ったほど、怒ってはいないようだ。どちらかというと何か真剣に考え込んでいる時の顔。
「・・・いや、“僕の兄”って言おうとしたんだけど・・・」
正直何も考えていなかったけど、きっとそうだ。そう言おうとして噛んだに違いない。
「ふーん」
幸いにもディーンは追及する気分じゃなかったみたいだ。もしかして結構酔ってるのかもしれない。
やたらと喉が渇いたので、買ってきたビールを飲もうとすると、なぜか右手がディーンの肩に回っていた。
なんでだ!?
もしかして呪いの後遺症で、手や口が不随意運動するようになっちゃってるんだろうか。
「ごめん」
ディーンがなんだかぼーっとしているので、追及されないうちにサムはそうっと手を離す。のどがカラカラだ。ビール、もう1本買ってくればよかった。
「おい、サム」
こちらに視線を向けないまま、ディーンが言う。
「な、なに?」
追求されたら不随意運動仮説で説明できないかな、と思いながらサムは返事をする。
「お前は、俺の、何だ?」
さっきの言い間違いを根に持ってるんだろうか?怒っている声ではないけれど。
「・・弟、だけど・・・」
言うと、
「わかってるなら、いい」
呟いて、ディーンは微笑んだ。
ひどく、優しい顔で。
何か、よくわからない感情がこみ上げてきて、サムは言葉に詰まりながら兄の顔を見つめていた。
おしまい
当社比としては大展開ーー(笑)まあ、でも基本ほのぼのだから。ふーふだから。