何だか植物のような気配の人だ。
座ってろよ、と言われたソファーでキッチンに立つトムを見ながらクレイは考える。
自分を病院に迎えに来たこの男は、ルームメイトというより家族のようだ。
端正な顔立ちで背が高い。
記憶がない、と騒いだ医者や会社の上司だという男と対象的に、
「まあ、そういうこともあるよな」
淡々と呟き、クレイの顔を見て、痛む所はないか?と聞いた。
目が覚めてから何も思い出せない自分を責めていないと感じる相手は初めてで、その声に急にひどくホッとしたのだ。
車に乗り込んで2人きりになったときに
「俺も時々記憶を無くすから」
と呟いたのは少々無理のある慰めだと思ったが。
そして、自分の部屋だと言われて入った寝室の様子を思い出す。
あれは、どう考えればいいのだろう?
「朝お前が野菜が不足してる、と騒いだんだ」
夕食にと、スープとポトフの中間のような料理を皿に入れながらトムは小さく笑った。
「だから肉っ気が少なくても今日は我慢しろよ」
野菜だらけの皿への感想が、顔に出ていたのだろう、あっさり言い当てられてクレイも少し笑った。
食事をしながら急に手を震わせたトムに、手を伸ばしたいと思いながらできなかった。
例えば であったなら、なんの不思議もないだろうこの距離を、自分はこの男とどうして持つ事になったのだろう?
翌日の昼になって若い女性が緊張した表情で家を訪れた。
「ホイットニーだ。お前の妹の」
迎えに進み出たトムが通り過ぎざまそっと囁く。
「連絡ありがとうトム」
「いや」
女性とトムは玄関先で軽くハグを交わす。クレイはその横で所在無く立っていた。
「君が僕の?」
「そうよ兄さん」
泣き笑いのような顔でホイットニーが微笑む。
「まったく、こんなことでもないと音信不通なんだから!」
「そうなの?」
「そうよ。もう2年は会ってないわ」
目顔でトムにも尋ねると、
「まあな」
と肯定されてしまった。
「・・・それはごめん」
身に覚えが無いが、とりあえず謝る以外に手だてがない。
事故からのことについて一通りの説明をした後、トムがホイットニーに切り出した。
「医者が言うにはできるだけ事故前の環境で過ごした方がいいらしいんだ。だから心配かもしれないが・・・」
「ここでこのまま二人で暮らすってことね」
「ああ」
「ちょうどいいわ、実家はもう売ってしまって無いし、私と夫のアパートも広くはないのよ」
「そうか」
「お願いできる?トム」
「ああ」
「兄さんも、それでいいのね」
確認をされてクレイは頷く。
ホイットニーは自分がここに住んでいることも、会社のことも知らない様子だった。
彼女の態度を見ていると、仲が悪い兄妹だったというわけでもなさそうだが、彼女と夫のいる家に世話になるのは、今以上に所在の無い思いをしそうだった。
「書類の類は全部持ってきてるのよね?」
「そのはずだ」
「何かあったら電話して」
「わかった」
応えているのはクレイではなくトムだ。
自分のことなのにさっぱり分からず、またもクレイが居心地の悪い気分に陥っていると、ホイットニーが不思議な瞳で見つめてきた。
「兄さん」
「あ・・・うん、何?」
「怖いかもしれないけど、早く思い出してね。兄さんに忘れられてしまうと、辛いわ・・・私」
言いながらそっと細い腕を回してくる。
「うん・・・」
抱き返しながらクレイは、ホイットニーの口調が『兄に自分を忘れられると辛い』と言っているわけではないような感覚がひっかかった。
数日たつと、もとから軽いものしかなかった怪我はあらかた目立たなくなり、だけど記憶の方は相変わらずはっきりしなかった。
「気晴らしにバーでも行って見るか」
夕食が終わった後、ぼそっとトムが言った。
「いいのかな?」
「外傷は無いんだし、薬を飲んでいるわけでもない。いいんじゃないか?」
少し考えて、クレイは同意する。
家の中での生活には、ほぼ支障がないことがわかっていた。外に出てみるのも悪くない。
自宅から徒歩で行ける範囲に店はいくつかあり、トムはぶらりとそのうちの一軒に入った。クレイも後を追う。
意外なことに、トムはこうした店に酷く慣れた様子だった。
2人してカウンターに場所を確保した後、トムが少し眉を上げて見上げる。
「どうした?」
「いや・・・・あんまり外に出ないのに、慣れてるから驚いた」
「ここのところはそうだけどな。お前と俺は、しばらく一緒に旅をしてた。その時は毎晩こんなもんだ」
「ふうん・・・」
なんだか想像できない。
クレイが見た限りのトムは、家の中に静かに生きている植物のような人だ。静かに少しだけ動き、静かに話す。
毎日移動し、酒場を渡り歩く生活をしていたなんて想像もできない。
しばらく黙って酒を飲んだ。トムはウィスキーのグラスを舐めているが、クレイはビールにした。トムによると、自分がよく飲んでいた銘柄だそうなので。
「おい」
トムがクレイをつついた。
「なに?」
クレイが振り向くと、グラスを持った手でちょっと向かいのテーブルを指す。
「あそこの女。さっきからお前を見てる」
視線を向けると、確かにこちらをチラチラと見ているグラマラスな女性がいた。目が合うと笑いかけてくる。
「行って来てもいいぞ」
横からした声に一瞬反応できなかった。
「なんだって?」
見下ろすと、トムはこちらを見ずに言葉を続ける。
「旅の途中では、俺もお前も好きにしてた。家までの道が分かるなら、ここで解散にしてもいい」
瞬間、こみ上げてきたものは怒りなのか疑問なのかよくわからなかった。
「いいのかよ」
思いがけず低い声が出た。
トムの視線が自分に帰ってくる事に酷く満足する。
「なにがだ?」
心底わからない、という表情をするこの男の方が分からない。それとも自分のとんだ勘違いなのだろうか。
「事故に遭う前の晩、うちに誰か来ていた?」
クレイは尋ねる。
「いいや」
トムが否定したことに安堵した。
「じゃあさ、前の晩、あんた俺の部屋で過ごしただろう?一緒に」
寝室に残っていた明らかな情事の痕。
その相手はあんたなんだろう?
言い逃れは許さない、と目に力をこめて睨みつける。
だが、トムの反応はあっけなかった。
「うん、まあそうだ。よくわかったな」
あっさりそのまま肯定されて気が抜ける。
「あの部屋見れば誰だってわかるよ・・・」
「あー、お前、片付けずに仕事行ったのか?自分がやるって言ってたくせに」
動かぬ証拠を押さえたつもりが、呆れられただけだった。
「恋人・・・だったの?」
過去形で言うのも変な話だが。
「うん、まあ、つきあって、いた」
急に言いづらそうにトムが答える。
「なんか、引っかかる言い方だね」
言うと、ちょっと困ったような顔で見つめられた。
そんな顔をすると、端正すぎる男が不意に弱みを見せたようで、クレイは落ち着かなくなる。
「付き合ってたのに・・・なんで他の人と遊んで来いなんて言ったの?」
それでも聞きたいことはあった。そう、さっきの怒りのような感情はそのせいだ。
「お前はもともと別に男に興味はなかったし、今、お前がしたいようにすればいいと思ったんだ。俺はお前といられれば、なんでもいい」
「・・・よくわからないよ」
クレイは憮然とする。突き放されているような気もするし、熱烈に求められている気もする。
「そのセリフはよく聞いた」
目元をくしゃっとさせてトムが笑った。この数日見てきた静かな笑いではなく、ひどく嬉しそうな顔で。
なんだか急に喉の渇きを覚えて、クレイは残っていたビールを飲み干した。
「僕のしたいようにしていいならさ、」
まだ笑いの残るトムの顔を覗き込む。
「今夜、僕と一緒に過ごしてよ。僕の部屋で」
トムは一瞬、その翠の目に何か言いたげな光を浮かべたが、黙って頷き、グラスを置いた。