同居してるクレトム
一度はやりたい記憶喪失ネタ
長くなっちゃったのでその1
電話が鳴った時、トムはネットで今日の取引を終え、夕食に作るスープをどうするかぼんやりと考えているところだった。
基本的にトムは電話に出ない。家も電話も名義はクレイのものだし、クレイがトムに連絡する時は携帯電話を使う。
トムはクレイ以外の人間とはなるべく関わりをもたずに過ごしていた。
しばらく呼び出し音が鳴った後、留守番電話に切り替わる。
電話の横に立ち、吹き込まれるメッセージを聞いていたトムは、やがて眉をひそめて受話器を取り上げた。
連絡はクレイの勤める会社からで、彼が仕事中事故に遭い、病院にいることを告げるものだった。
大きな怪我は無い。だが、一時的に記憶の混乱が起こっていると。
病室に入ると、クレイはベッドに座り、隣に電話を寄越したのだろう、会社の上司らしい男が立っている。
トムは姓だけは偽名を名乗り、上司と握手した。もう、何年も実名を書くことも名乗ることもしていないので、その辺は慣れている。
トムに頷いた男はクレイに向き直った。
「迎えが来たぞミラー」
言われてクレイがトムを見つめる。好意も敵意もない、平坦な目だ。
「あなたは?」
「同居人だよ」
初めて会った時のクレイはどんな表情をしていただろう?
微笑みかけると、固く強張ったクレイの表情がわずかに揺らいだ。
「もう帰れるんですか?」
トムは上司に向き直り尋ねる。頬にガーゼを当てているのは見えるが、病衣を着ているだけで、どこか痛む様子でもない。
「ああ。外傷はほとんどないんだ。もちろんCTやMRIも取っている。ただ、電話でも伝えた通り、記憶の混乱が起こってるそうなんだ」
「混乱と言うと?クレイ、自分の名前は覚えてたのか?」
「いや。この人が教えてくれたので」
クレイが肩をすくめた。
「他には?」
トムの問いには、首をふるだけの答えが返ってきた。
「・・・・・医学用語はよくわからないが、混乱というより、きれいさっぱり無くなっているんじゃないのか?」
トムはクレイを見つめる。クレイは困ったような顔をして、トムを見つめ返した。
「とりあえず、言葉は忘れてないよ」
「・・・そうだな。帰ろうか」
促すと、クレイは頷いてトムの渡した着替えを受け取った。
きょろきょろと周囲を見回すクレイを乗せて自宅まで戻る。
鍵を開けると、当然ながら先ほど出て行ったままだ。
PCがテーブルの上に置かれ、キッチンには鍋と野菜がゴロゴロしている。
「えーと、おじゃま、します・・」
「お前の家だよ」
なんだか居心地悪そうにリビングに立つクレイに笑いかけた。
「お前の部屋はそこだ。俺は隣の部屋を使ってる」
このごろはクレイの部屋で寝ることが多かったけど、ちゃんと寝室を別に持っておいてよかった。
トムは心の中で頷きながらクレイに家の中の説明をする。
電気のスイッチ、バスルーム、着替えの置き場。
この家をクレイが借りた時、2人で確認し、決めた手順をクレイに教える奇妙さにふと戸惑った。
「飯は俺が大体作ってた。食べられそうか?」
クレイは頷きつつ、どこにどうしたらいいか分からないように突っ立ったままだ。
「仕事はしばらく休めって言われたんだ」
ぽつり、とクレイが呟く。
「そりゃそうだろ。大丈夫だよ、治療費は会社もちだろうし、少しなら貯金もあるから」
トムが言うとクレイが少し目を丸くする。
「僕は貴方に通帳の管理までしてもらってたの?」
「うん・・まあな」
「すごく・・・・貴方を信頼しているんだね僕は」
なんとなく苦笑して、いつまでも突っ立っていそうなクレイを引っ張り、リビングのソファに座らせた。
最近僕ら野菜が不足してるよ!と騒いだクレイのために作りかけていたスープは、予定より随分シンプルなものになった。
簡単な夕食を取りながら、トムはクレイに確認する。
「お前の妹に、連絡を取ろうと思うんだ。会社が取ろうかって言ってきたけど、俺からでもいいかな」
「貴方は妹と面識があるの?」
「ああ」
「うん、じゃあお願いするよ」
頷いて、トムは食事を再開する。
スプーンが皿にあたる音が妙に大きく響き、ふっと張り詰めていた緊張が緩む。その瞬間、どっと様々な感情があふれて来た。
どうしよう。どうなるのだろう?
クレイはトムを忘れている。
トムのことも、あの湖でのことも。
思い出すことがあるのか、いつになるかもわからない。
自分達を強く結び付けていたのは、皮肉にも互いの抱える、消えない悪夢だ。
例えクレイがトムを忘れたとしても、あの悪夢を覚えていたなら、きっとまたクレイとトムは互いを必要とし合える。
例え自分を忘れても、トムにはクレイが必要だった。
だけど、
悪夢を忘れたクレイは、自分を必要とするだろうか?
トムは突然カタカタと震え出した自分の手を、どうしようもなく見詰めていた。