物音を聞いた気がして、トムははっと目を開いた。
明かりを消した室内は静かで、微かに乱れた自身の呼吸が耳につく。
大丈夫だ。誰も俺を見つけていない。
ハリーも消えた。
追っ手は来ていない。
大丈夫。まだ大丈夫だ。
頭の中で繰り返す言葉と裏腹に、心臓がドキドキしてきた。
寝返りをうって、隣に眠るクレイの横顔を見つめる。
人懐こく笑う瞳を閉じていると、この年下の男は驚くほど精悍な風貌になる。
うっすらと髭の伸びかけた顔を眺め、静かな寝息を聞いているうちにだんだんと心が落ち着いて来た。
そう、来るか来ないか分からない追っ手のことより現実的なことを考えよう。
例えば未だに半端に終わってしまっているこの状況とか。
焦らなくていい、というクレイを無理矢理引き倒したにも関わらず、二人でじたばたした揚句、またも最後まで行き着かなかった。
手を伸ばして唇をなぞる。そっと身体を起こして重ねるだけのキスをした。暖かい感触が気持ちいい。
身体を繋げることだけに意味があるとは思わない。だが、誘った側の責任と、年上の意地はある。
やっぱりこの状況はどうにかしよう。
なんだか目が覚めてきたトムは、クレイを起こさないようにそっとベッドを抜け出した。
翌朝
朝食を終え、皿を洗ったクレイが仕事にいく準備をしていると、先に部屋に引っ込んでいたトムが出てきた。
ジャケットを羽織り、車のキーを持っている。
「でかけるの?トム」
「ああ。さすがに家の中にずっといたら滅入ってきたから」
確かに、食料品の買出しに行く以外は、トムはほとんど外出しない。この間図書館に行ったのが珍しい遠出になるくらいだ。
「どこ行くの」
「別に決めてない」
驚いたのが顔に出たらしい。トムがちょっと目元で笑った。
「心配ない。車でこの辺の道路を確認するだけだ。いざって時に道がわからないとまずいしな」
トムが肩を叩きかけ、ちょっとためらってから頬に触れてきた。
「夕方には戻るよ。…確認しておかないと落ち着かないんだ」
「分かった。僕は仕事に行くけど、何かあったら電話して。なるべく早くかけ直すから」
頷いてトムが出て行く。
トムを見送るのは久しぶりだ、とクレイは思う。最近ずっとクレイは見送られる側で、トムはいつでもここでクレイを見送り、帰りを待っていてくれる側だった。
なんだか今日のトムは様子がおかしかった。旅の途中でよく目にした、追っ手の気配に怯える感じとも違う。
あえていえば、困り果てたような・・?
夕方まで待たず、昼に一度電話をしよう。バイクにまたがりながらクレイは思った。
結局トムの帰宅は夕方を過ぎ、クレイは久しぶりに食料調達に走ることになった。
トムは本当に朝からずっと近隣を走り回っていたらしい。
「何かあったの?」
「いや・・ただ、何ヶ月も同じところにいるなんてずっと無かったからな」
「そうだね。・・・・ねえ、何かあったときの落ち合うポイントは前と同じで良さそう?」
「ああ。モーテルは開いてたし、変わりもないから、あの場所で大丈夫だと思う」
「よかった」
しばらくもくもくと食事をし、クレイはもう一度同じことを尋ねた。
「何があったの?」
「・・・・」
チャイニーズの紙パックにフォークを突っ込みながらトムが固まる。
固まるトムも実は可愛い。
整いすぎた容姿で、近づきがたい印象になることもあるトムだが、固まる時はただでさえ大きい目がギョロッと開かれて子供っぽい印象になる。
でも見とれていては話が進まない。
「何かあったんだよね」
確信を持って問いただす。
「・・・・食事が終わってから話す」
パックの中から小さな海老を拾い出しながらトムが言った。
「食欲がなくなるからな」
「・・・で?」
食後、ソファに落ち着いたところでクレイは改めて尋ねる。
「んー・・・」
ビールを2本持ってきたトムが、一本をクレイに手渡し、隣に腰掛けてきた。
がたいのいい二人が並ぶと、どこかしらがぶつかるが、当たり前のようにトムが近くに来るようになったことがくすぐったく、嬉しい。
一口飲んでから、トムが口を開いた。
「男同士のやり方についてちゃんと調べようと思って」
くらり。
度数の低いビールなのに眩暈がした。
「昨日の夜、ネットで検索してたら、すごく具体的に教えてくれる動画をみつけたんだ」
それでか。
一緒に眠ったはずなのに、夜中に目が覚めたら隣からトムがいなくなっていて、正直クレイはがっかりした。
「だけど、それを見ていたらなんだか本当にできるのか心配になってきてさ」
他にもあれこれ動画を漁った挙句、どうにもならん焦りから気晴らしに車で飛び出したらしい。
「いいのが見つからなかったなら部屋に戻って来てくれればよかったのに」
夜中にPCにかじりついた挙句、トムは自分の部屋に戻って寝てしまったのだ。
「・・・だってできるか自信がなくなったし」
しょうがないだろう、という表情のトムに頭痛がする。
それはなにか。自信が持てたら僕を今度は夜中にたたき起こして情報収集の成果を見せるつもりだったんだね?
「あんなことお前にさせて、お前の身体に悪いことあるんじゃないか心配になったし」
ぼそぼそとトムが続ける。
・・・・・・・一体何を見たんだいトム。
「見よう。その動画」
「え?」
「トムがそれだけショックを受けた動画だ。僕もきちんと見ておきたいよ」
こちらを見つめるトムの瞳をのぞきこんでしっかり頷く。
トムのことだから思い出してはまた車で飛び出しそうだ。できれば落ち着いて家で平和に過ごしていて欲しい。
そのためにも何がトムを動揺させたのか知っておこう。
「そうか」
トムがどこかいそいそとPCを起動し、ウェブサイトを開く。もしかしてと思ったが、トムはものすごい数の動画をブックマークしたらしい。
そして。
「・・・・・・・・な?」
「・・・・うう・・」
「すごいだろ?」
「・・・・・・・・すごいね」
「で、俺ってこっちのポジションなわけだろ。お前はこっちでこう動く」
「・・ううう」
「こう広げたらいいのは分かったけどさ、でもこれするのってお前ってことだろ、この動画だと」
「・・・・」
「で、自分でやるのを探してみたらいくつかあったんだけど・・」
・
・
・
「で、やり方はだいぶ分かったんだけど、お前も結構大変そうだから、これをしてお前にいいのかなあって思ってさ」
目を伏せて呟くトムの横で、クレイはうめいた。
新天地だ。
だけど僕は絶対に熱演してくれたジャックやチャーリーと未知なる扉を開きたいとは思わないぞ。
ちらりと横を見ると、かすかに眉をひそめてトムがクレイを見つめている。長い睫毛の奥で翠の瞳が不安そうに揺れていた。
衝動的に抱き寄せる。おい、と慌てる手からビールを取り上げ、脇に置く。
唇に、翠の瞳に唇を寄せ、その身体を両手でしっかり抱きしめた。
トムがほっとしたような息を吐いて抱き返してくる。
「ねえトム」
「ん?」
「やっぱりこういうのはさ、見るんじゃなくてするものだと思うよ」
「うん、そうだな」
触れた身体の振動から、トムが声を出さずに笑ったことがわかった。
「無理なことするよりもさ、朝まで一緒にいてくれた方が僕は嬉しい」
ね?
少し身体を離して覗き込むと、意外なことにトムは「うーん」と考え込んだ。
「朝まで目が覚めなければいいよ。でも覚めたらベッド狭いし、夏だし」
「えーと」
「お前、体温高いから夏は暑いよ」
くりん、とした瞳を瞬かせて年上の坊ちゃんは率直な意見を言ってくれた。
僕の部屋だけエアコンを入れるか。
でかいベッドを買うか。
寒くなるのを待つか。
ダイヤを欲しがる彼女じゃなくても、愛ある生活には金も要るのだ。
おしまい
ちなみに動画は実在しまへん。シリアスっぽくはじまりホケホケと終わる。