「おいおい、でかいなりして弟はますます兄貴べったりじゃないか」
悪気のない男のでかい声にディーンは硬直した。
狩の合間の移動中、どうということもないバーだ。
今まで起こらなかったことが不思議といえばそうなのだが、ついにサムが「夫状態」の時に、知り合いに遭遇してしまった。
「なんだ、どっかで見たのがいると思ったら」
声をかけてきたのは何度か顔を合わせたことのある中年のハンターだ。
「よう、生きてたのかしぶといな」
何気なく返事をしながらディーンは素早くこの数十分の行動を脳内で反芻する。
このバーに来てから今まで何をしていた?
とりあえずビールと安ウイスキーを何杯かやる中、サムとのやりとりでそうおかしなものはなかったはずだ。
この頃ではディーンも開き直って、「外では夫婦と公言しない、ベタベタしない」の2点のみをサムに厳命し、他は特に規制なく行動している。呪状態が続いていた間は、顔見知りに会わないようにかなり注意を払ってきたのだが、なにせ今のサムは数週間普通だったかと思うと突然「夫」になったりするので備えようが無いのだ。
幸い相手も別段不審に思ってもいないようで、
「一杯おごるぜ。こっちで飲まないか?」
と誘ってきた。
「いやもう出るとこなんだ、悪いな」
長く話してぼろが出るとまずいので、さっさと引き上げることに決める。
狩の最中には身分詐称していることもあるから、誘いを断るのは珍しくもないし、大体においてハンターに人当たりのいい奴や人格者などそういない。多少気を悪くされても目くそ鼻くそのお互い様だ。
一方サムは相手を覚えているのかいないのか、最初に軽く頷いたきり特に口をきいていなかった。
だが、やや酔いが回っているらしい相手が、
「そう言うな、ちょっと付き合え、聞きたいこともあるんだ」
そう言ってディーンの肩を押してテーブルに誘おうとすると、無言で近づいてその手を外させた。
瞬間、ディーンは警戒する。前後の流れを聞いていれば、単なる飲みと情報交換の誘いであることは明らかだが、以前サムが「夫婦なんだ」と衆人の前でかましてくれた時もこんな場面だった。
何もすんなよ、と無言でサムに視線を送るが、残念ながらテレパシーは半分しか通じず、アホな夫は爆弾発言こそしなかったが、ディーンの肩をがっしとつかんで、自分の傍へ引き寄せる。
で、相手からの先の台詞となったわけだ。
「弟?」
そして今度はサムの不審そうな声に再びディーンは固まった。ディーンが言い切る数々のでたらめはおもしろいほどあっさり信じ込むサムだが、他人に対してはそうでもないらしい。
「いいから。ほら、帰るぞ」
長居するとさらにややこしくなりそうなので、サムの腕をひっぱって店を出る。
「おい!」
後から追う声に、
「なんかあるんだったら電話しろ!番号は同じだ」
と振り向きざまに怒鳴る。
「ディーン」
咎めるように言うサムをじろりとにらみ、
「仕事の話だろうが」
と低く唸ると、サムは小さく息をついて
「ならいいけど」
と呟いた。
モーテルに戻って扉を閉めた途端、サムは外で離れていた分を取り返すとでもいうようにディーンに腕を回して抱きすくめてきた。何となく止めても止まらない勢いだったので、ディーンも逆らわずに大人しく引き寄せられる。
目尻や髪にキスを落とされるのも放っておいた。スキンシップだけなら別にいいのだ本当に。
呪の再発云々があるとはいっても他人の目がないと、急に事態がシンプルに思えて一瞬気が抜けかかるが、
(いかんいかん)
と自分を戒める。何を考えてるんだ全然シンプルじゃない。自分がこの状況に慣れたら色々終わりだ。
「どうしたの、ディーンぼんやりして」
頬を撫でられる感触と声に意識を戻せば、いつの間にやらソファの上でサムの膝に乗り上げるように抱かれている。
(お前、兄ちゃんが悩んでいるのをいいことに何やってんだコラ)
ぼんやりと対面に抱かれるままになっていた自分への突っ込みはこの際しない。
(どうしたもんか)
最近本当にややこしいしめんどくさい。
「夫」が贈ってきた花束に、「弟」がキーキー目くじら立てたのもかなり脱力する出来事だったが、この間なんか狩で仲良くなった被害者の美人を家まで送ろうとしたとき、弟は自分から、
「兄貴が送ってあげなよ。僕は疲れたから早く寝たい」
とか言ったくせに、モーテルに帰ってきたら寝てない上に「夫」になっていて仰天したのだ。
その後やっぱりこんな体勢で、
「ディーンがしたくない気分なのは尊重するけど、他の人と行かれるのは悲しい」
だの
「僕も我慢してるよ?」
だの、延々と詰られた。彼女とそういう雰囲気になっていたのはサムも承知の上だったと思うので 、
「お前、自分が送れって言ったんじゃねえかよ」
と反論はしたのだが、
「夜中まで過ごしておいでなんて言ってない」
と鼻をつまんで怒られた。
そんなもん、言わなくても分かるだろうが!という叫びは悲しいことに全然通じず、あの後は本当に本当にやばかった。結局相手とキスしかしていなかったことを最後に納得させて何とか無事にすんだのだが、思い返すだけでも冷や汗が出る。
しかしこのままでは俺の一生どうなるのか。
夫モードのサムに言えば
「そういうことはパートナーとだけするのが結婚だよ」
とか言われるし、正常なサムにはそもそも知られるわけにはいかない。
どういう刺激で夫が出てくるのか本当に誰か教えて欲しい。
夜中に美女と二人きりでものびのびできないストレスと、一生付き合えというのだろうか。
突然シャツの上から鎖骨の辺りをなぞられる感覚に再度意識を今に戻す。
「これ、下げてくれてるね」
「え」
サムが指すのは首からかけているチェーンと、その先の指輪だ。サムの左手にはしっかりとペアのそれがはまっている。
「ああ」
何せ売ると二束三文だし、溶かして弾にするにも量が足りない。いかに偽造カードと言えども、売った後にまたサムが買って来るんでは金の無駄だ。それにサムはきっと買い直すたびに指にはめてくるに違いない。あれも心臓にも悪い。
だがそういうことをいちいち言うのも面倒で、黙ってぼんやりとサムの指の感覚を追う。
こそばゆいというほどではないが、シャツ越しで体温が伝わりそうで伝わらないのがもどかしい。
膝に乗り上げているので今は下に見えるサムの頭を抱え込んだ。
「ディーン?」
「ん」
「眠いの?」
「いや」
眠くはないが、妙に疲れてはいるのかもしれない。
とにかく、知り合いに会った時の対応だけはしっかりサムに刷り込んでおく必要がある。
赤の他人と違ってハンター達は当然サムとディーンが兄弟だと知っているのだから。
「サム」
「なに?」
お前は俺の弟だ。
呪の反動がないなら、この際事実を告げてしまおうかと思い、言いよどむ。
ためらった理由の一つ目は、「夫」に対して満足と対極のことを告げてサムが正常な状態に戻らなくなったらどうしようという懸念。二つ目は最初の呪の状況とは恐らく違うと思いつつ、万が一反動があったら、という恐れだ。
だがこれからあちこちでボビーやエレンたち以外の知り合いと会った時、相手から『兄弟』として扱われることは何としても受け入れさせないといけない。サムが今日のような反応を続けたら、不審に思う相手も出るだろう。調べられたあげく真相がばれたら、サムは絶対にこの先延々とハンター界で嘲笑の的だ。
「兄弟って言われたことを考えてるの?」
突然至近距離にサムの顔があってびっくりする。
「わかったか」
「ディーンは、ああいう場所ではそういうことにしておきたいの」
言いながらサムの両手が頬を包み、髪をなでる。
本当は違うだろう?と言い聞かせるようなその感触にふいにカッとなる。わけの分からない衝動のまま、自分を抱えるサムに体重をかけ、ソファの上に押し倒した。
「ディーン?」
目を見開くサムに向かって口の端を無理矢理上げてみせる。
「そうだ。今後会う奴皆にそういうことにしとけ。・・・ただでとは言わねえから」
驚いたように見上げるサムの目が、今度は言わなくてもその意味がわかったと告げている。そして倒れつつディーンの腰を支えていた手がゆっくりと持ち上げられ、ディーンの頬を包む。それは少しだけなでるように動き、次の瞬間、思い切り頬の肉をつまんで左右に引っ張った。
「ぐげっ」
大して痛くはないのだが、夫状態のサムがこういうことをするのはえらく珍しい。だが見下ろすとその顔はやっぱり怒ってはおらず、どちらかというと困ったような顔をしている。
「馬鹿だね、ディーン」
「・・・何がだよ」
「大事な人と愛しあうことを契約の代価にしちゃだめだよ」
「・・・・」
あいしあう。
弟が夢見がちなカッチン玉で本当に良かった。
ディーンは珍しく心の底から感謝した。ロマンス小説のようなセンテンスに急に頭が冷える。
何やってんだ俺は。弟が恥かかないように守るのに、やっちまってどうするんだ。意味がない、というか本末転倒の最悪だ。
サムの上に馬乗りになった姿勢で、さてこの事態をどう収拾しようとダラダラ心の冷や汗をかく。
ディーンが脳内で煩悶しているうちに、ムカつくことにサムはディーンを乗せたまま腹筋で起き上がる。そしてあろうことかお兄様の頭を撫でて言った。
「いいよ。ディーンがその方がいいなら、外で兄弟と言われても黙ってる」
「・・・そうしてくれ」
「ホントに恥ずかしがりだね」
ちげーわ!!ただの事実だこのボケが。
大音量でお届けしたい罵声は今日も脳内に留める。
そのただの事実を、突きつけられずにいるのは自分なのだ。
またつい考えに浸っていると、ふいに浮遊感と共に視界が回った。気がつけば今度はディーンがソファに倒され、天井の位置にサムの顔がある。
「サム?」
「さっきの話とは関係ないよ」
「えーと」
「僕は何かの代償じゃなく、ディーンを抱きたい」
ジーザス!!
再び流れる心の冷や汗。
「駄目だ」
「なんで?さっきはディーンから言い出してたよね」
「あれは気の迷いだ」
「もう一回迷って」
「やなこった」
ソファの上に押さえつけられ、顔中に降ってくるキスがくすぐったくてじたばたする。
揉み合いはそのうちじゃれあいのようになり、どちらともなくクスクス笑いだして終わりになった。
「愛してるよディーン」
眉間のしわに、盛大な音をたててキスをしてからサムが言う。
「俺だって愛してるさ」
「どうしてもだめ?」
「だめ」
「ああ、残念」
悲しげに眉を下げてみせつつ、目は笑っている。
「じゃあさディーン」
ディーンの両腕を自分の首に回すよう促しつつ、サムが言った。
「なんだよ」
「諦めるから、シャワー浴びたら今日はディーンが僕のベッドにおいで」
「・・・それのどの辺が諦めてんだよ」
「何もしないから」
「うそつけ!」
「来てくれたら我慢する」
「男だったらありえねえ」
「愛してるからありえるんだよ」
でも、ディーンが来てくれなかったら僕がそっちに行くけど、その時は我慢できるかわからない。
額を合わせながらこんなところだけ変わらない上目遣いでねだられて、ディーンは頷かざるを得なかった。
愛しているという奴のベッドに、シャワーの後で自ら行く。
これが食ってくれのサインでなくてなんなのか。
何とか逃れる手はないものか。
誰かに助けを求めたくても、こんなことを相談できる相手はこの世にもあの世にもいそうもなかった。
・・・・・・・・・
傍らの暖かい温度が少し離れ、入れ替わりにひんやりとした空気がシーツの中に入ってくる。
(何時だろう)
うっすらと目を開けたサムは視線だけでまだ薄暗い部屋の中を見回した。多分まだ夜明けには遠い時間だろうと体内時計が告げている。
瞬時に覚醒しないのは、無意識に張り巡らせた神経に引っ掛かるものがないからだ。
そして腕の中に目を落とす。寝返りを打ったが起きる様子はなく、静かに寝息をたてるディーンの顔があった。
(まただ)
最近では前ほど記憶が飛ぶことはなくなったが、たまにこういうことがある。
今日は見事にすっぱり覚えていない。なんで僕は兄貴を抱えてるんだろう。十中八九自分が兄のベッドに押しかけたと思ったのだが、記憶が確かならこちらは自分のベッドだったはずだ。
至近距離に兄の寝顔を見ることも、気がつけば密着していることも、変な話慣れてきてしまった気がする。ディーンにしてみれば大迷惑な話なのだろうが、この件に関しては相変わらず一切の突っ込みもからかいも無しだ。
眠りの狭間でうつらうつらしていると、今度は寒くなったらしいディーンが小さくもごもご言ってサムの方に身体を寄せてきた。ちょうどいい位置にきた額に唇を寄せて、触れるだけのキスをすると気持ちよさそうに小さく息をつく。
普段はタフで我慢強く振舞っているけれど、眠っているときのディーンは少しだけ自分自身に素直だ。
寒いのが嫌いで、スキンシップと柔らかいキスが好きで。
くすぐったいものがこみ上げてきて、眉や鼻やこめかみに起こさない程度にそっとキスを落とす。
微かに開いた唇に触れかけると、
「・・・こら」
半分眠った顔のディーンに寝ぼけ声で怒られた。
「ごめん」
あやまってキスする場所を旋毛に替えると、再び碧の目が閉じて抱いた身体から力が抜ける。
眠っていても禁止ラインに触れようとすると反応する彼だが、そのことが逆に他はいいんだと告げているのが可愛い。回した腕に少しだけ力を入れて抱き寄せても怒らない。密着した身体をもぞもぞと動かして、サムの胸で寝やすい姿勢を探している。
朝が遠くてよかった。
サムは幸せな気持ちで目を閉じる。
そんなこんなで、起床する頃にはすっきり「弟」に戻ったサムと多くを語りたくない兄が気まずく至近距離で顔を合わせた。
そして結局なんの進展もなく、日々は続いていくのだった。
おわり
ぐわー!M兎様、お待たせした割にこんなんですみません。
難産のわりに本当に波乱も大してなかった(夫婦に波乱は期待されていないかしら)夫婦呪でした。
ただ、夫サムの寒い台詞だけは詰め込みました!
どうか、少しでも寒い思いを(?)していただけますように---!!!
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