後になって悔やむから「後悔」というのだ。
今まで自分のやってきたことを振り返ると、失敗と後悔続きだった。
薄いマットレスに転がりながらトムは思う。
悪夢から逃げてもダメだったし、戦おうとしても見当外れだった。それこそ取り返しの付かない罪も犯してしまった。
ああそうとも。俺は罪人だ。
足音が響いて、トムはびくりと身を震わせた。
このフロアは無人だ。もしかしたらこのビル全体かもしれない。
この空きビルの一室に連れて来られた当初は、他にも同じような不法入居者がチラホラいたが、夜毎繰り返される異様な物音に慄いたのか、いつの間にやら人の気配がなくなっている。
だから物音がしたら、それはあの男だけだ。
逃げられるわけも無いのに立ち上がると、足枷につけられた鎖が鈍い音をたてた。
足音が近づく。
扉が開く音。待ち焦がれていたのに、恐ろしくもある。
「ただいま、二日ぶりだね。大人しくしてた?」
「クレイ」
大柄な身体にどこか子どもっぽさを残した顔がにこりと笑った。
「おなか空いたろ。食事買って来たよ」
穏やかな声で言いながら、テーブルに食べ物の包みを並べる。だが、その目が笑わず、トムの様子を観察しているのを知っている。
「・・・どうもまた『彼』じゃないみたいだね」
しばらくの沈黙の後、クレイは肩をすくめてそう言った。
「残念。正直『トム』じゃつまらないんだけど」
「悪かったな」
「ほんとだよ」
そう言いながらクレイは紙のカップを手渡してくる。
「なんだこれ」
「スープ。空きっ腹にいきなり重いもの食べるときついだろ」
「・・・ああ、そうだな」
もどかしく蓋を外し、中身を味わうどころではなく一気に飲み込む。
「ジュースじゃないんだから」
呆れたように言うクレイを睨み、
「くれ」
と、テーブル上の包みに手を伸ばした。だが、
「もう少し待たなきゃだめだって」
と遮られる。腕をとり、マットレスに座れと促され、トムは渋々従った。普段でもクレイの方が力は強い。食事を取っていない今日などはさらに分が悪かった。
クレイは変わり者だ。
トムがハリーを身の内に住まわせていることを知っていて、ここにトムを飼っている。
出会ったのはどこにでもあるような酒場だ。
そもそも最初の関わりが『ハリー』が叩きのめされて始まっている。
酒場で飲んでいる最中に気が遠くなり、気がつくとガンガンと痛む頭と、自分の上にのしかかるクレイの顔があったのだ。
何かのきっかけで『ハリー』になって暴れ、クレイに取り押さえられたのだということが少しして分かった。
警察に突き出すかと思ったがクレイはそうはせず、自分の宿に連れて行き、トムに事情を話せと言った。
そこで大量殺人(記憶にないにせよ)のことまで含めて洗いざらい話した自分もどうかと思うが、クレイはもっと変だった。
「おもしろいね」
そして言った。
「匿ってあげるから、僕のものにならない?」
故郷を離れるにつれトムの中の「ハリー」の凶悪度は下がり、この数年は出てきても、血のバレンタインのような猟奇的殺人は起こしていなかった。
しかし急に人格が変わる様はやはり尋常ではないので、そんなトムの様子を見た相手は、通報するか逃げるかだ。近づいてくるような物好きはまずいない。
クレイはトムが出会った唯一の『物好き』だ。
なんであの時頷いたのか。この部屋に繋がれてから、時々考える。
けれど、誰にも話せなかった全てを聞いた上で自分に『おいで』と差し出された手を、どうしても放したくなかったのだ。
驚いたことにクレイがハリーを押さえたのは偶然ではなかった。この部屋に繋がれてからトムは何度となく「ハリー」に乗っ取られたが、気がつくと叩き伏せられている。
そしてどうも「ハリー」が出ることをクレイは嫌がってはおらず、むしろそれもトムに声をかけた理由の一つらしかった。
問いただすとクレイはあっさりと頷いた。
「昔、妹と僕は同じような奴に酷い目にあわされたことがあるんだ」
そして暗く笑う。
「僕はずっとそいつを殺してやりたくて、でもいくら探しても見つからない。いつもいつも腹が立って、仕事も何も手に付かなくなった」
そしてトムを見て笑う。
「ハリーになった時のあんたをぶちのめして、すごくスッキリしたよ。イライラもちょっと収まったし、おかげで仕事にまた就けるかも・・・トムは気がつくとあちこち痛いわけだから大変だろうけど」
「・・・まあ、気がつくと人が死んでるよりましだ」
「そりゃそうだね!」
ははは、と本気で笑うクレイを横目に、ここで俺は腹を立てるべきなんだろうかとトムは悩み、結局何も言わなかった。手渡された保冷剤を顔に当てながら感じた、不思議な安堵は今も覚えている。
奇妙な感じだった。
今まで「トム」なら無害でも「ハリー」のせいでどこにも行き場が無かった。が、クレイは「ハリー」であることも含めてトムが要ると言う。ただし殺しても構わないサンドバックとして。
トムはこの部屋から動けない。
だから二日ぶりの食料に文字通りかじりつく。その様子をクレイはクッションのはみ出したソファに座ってつまらなそうに見ていた。
そして食べ終わったところで立ち上がる。
「体、拭いて」
トムはぎくりとクレイを見上げた。
「お前・・・またかよ」
言った途端に大きなスニーカーがトムの足を蹴る。力がこめられたものではないが、トムは小さく悲鳴を上げた。
「またかじゃないだろ!僕だって今日はハリーに会いたい気分だったんだよ。なのに出さないんだからそっちのせいだろ」
「俺は自分ではコントロールできないと言ったぞ」
背の高い姿を睨みつける。
そうだ。最初からそう言っている。初めて会った時から、クレイには嘘もごまかしもしていない。
殺人鬼を嬲りたい気分の時に「ハリー」が出ないことが続いたある時点から、クレイはトムに別の意味で手を伸ばすようになった。
「手と足をついて」
クレイの声は熱っぽいのか冷めているのか、判別がつかない。前に入らないと文句を言われて、無理にやらなくていいだろうと言ったら手酷く殴られた。こんな小汚ない場所で抱きたくもない男の身体に苦労する必要もないと思うのだが。
固いマットレスの上で肘をつき、今の自分の格好を意識したくなくて思考を逃避させる。
殴られたくない。
クレイに身体を開くとき、トムがまず考えることはそれだ。クレイの言葉に従っている限り、どんなにみっともないザマを晒してもクレイは怒らない。そして上手く感じることが出来たときは、むしろ優しい。
少し前、貫かれている最中に頭がふいに真っ白になり、何かわけのわからないことを喚きながら、絶頂を繰り返して止まらなくなったことがある。気がついたらクレイの肩と背に盛大な爪痕があって、これは殴られるかと身を縮めたがクレイは怒らなかった。
早く終われ。最初の頃は圧し掛かられるたびにそう思っていた。
だが、時々クレイの手が緩やかにトムの背を撫でたり、髪をかき上げたりする、その感触にいつの間にか焦がれるようになっている。理由は何でも[1]いいから、優しく触れる手が欲しい。
だが実際のところ、元々トムはトムでいる時間の方が圧倒的に長い。
クレイがハリーを殴ることも、小汚いマットレスの上でトムを抱くことも、次第に少なくなった。
クレイは次第に穏やかな表情が多くなり、、ふたりは殴りあいもセックスもせずにただ話をした。
「久しぶりに職探しに行ったよ」
「へえ。よさそうな仕事があったか?」
「うん、まあね」
答える顔は明るい。
ハリーを殴り発散することで、本来の生活ができるようになったなら結構なことだ。
「もしも採用になったら、今までほどは来れないから、念のために少し多目に食糧置いてくね」
「・・・どうせなら腐らない缶詰とかにしてくれ」
何となく不穏なものを感じて注文をつけるが、クレイは
「今度はそうするよ」
と笑うだけだった。
その後クレイは、訪れるにつれて暮らしの様子が変わっていくようだった。
「アルバイトを見つけた」
「正規雇用の口があったよ」
「もうちょっと条件のいいところに移れそう」
「ポストが上がったんだ」
身なりもトムとどっこいどっこいの風体だったのが、次第にいい仕立ての服を着て、髪も爪も整えられて行く。
だが、クレイの暮らしが整っていくにつれ、クレイが薄汚れたビルの一室を訪れることは予告通り少なくなっていった。
そして今は。
カーテンのない窓から、下の道を通り過ぎる車のライトが時々差し込む。
この部屋は水は出る。だから渇きはしない。
あとどのくらい自分はもつのだろう。水だけで過ごすようになって、数日が過ぎていた。缶詰の汁まで舐めたが、それももう無い。十日を過ぎたところで日付を数えるのは止めた。
座るのもだるくなってきて、マットレスにごろりと転がる。
朦朧とする意識の中で、自分を罵った。
なんであの時、あの手を取ったのだろう。
人生の終わりが見えてもやっぱり自分は間違ってばかりいる。
だけど。
自分に問いかける。今もし時間が遡り、クレイが自分に手を差し出したあの日に戻ったとしたら、自分はその手を払って背を向けるだろうか。
そろそろ身動き取れなくなってきた頃、足音が響いた。
夢かうつつか、クレイが入ってくる。
「遅い・・・」
自分の声がでたかどうかわからない。だが、唇の動きからクレイには伝わったようだった。
「昨日、結婚話をを断ったんだ。すごくいい相手だったのに」
唐突にイライラした声で言われ、なんのことだか分からずにトムはクレイを見つめる。
「冗談じゃない」
クレイはマットレスの周りを歩きながら吐き捨てるように言う。
「社長の娘だぞ。家も、財産もある。人脈もだ。つかまないなんて馬鹿だ」
まあ、それはそうだろうな。朦朧としながらトムはマットに転がり、クレイの声を聞いている。人生の最後に見る幻影なら、もう少し穏やかな時のクレイがよかったのにとぼんやり思った。
「でも欲しいか欲しくないかといわれたら欲しくないんだ」
そして足が止まり、声が近付く。動かせない視界の中に、クレイの顔が入ってきた。
「あんたなんか、前科持ちの男で、時々おかしくなる霊つきで、手間がかかるばっかりだ。持っていてもなんの得も無い。世間的に無価値だ」
くそみそな言われようだがその通りだ。
それを分かりつつ、自分に手を伸ばしたクレイは馬鹿で変わり者だ。そして時が何回巻き戻ったとしても、自分はやはり拒めなかっただろうな、とトムは思う。
「だけど、欲しいか欲しくないかといわれたら欲しいんだ。畜生」
自分が薄っすら笑ったのをトムは感じた。
「何がおかしい」
刺々した声。でも恐くはない。
「・・・何しにきたんだお前。あと数日ほっとけばけりがつくぞ」
手を汚さずに、厄介者は消える。
迷う余地もなくなる。
「連れに来たに決まってるだろ。人の話を聞いてろよ」
声と共に足枷が外れる音がして、いささか乱暴に抱き上げられる。
「今日からあんたはトム・ミラー、僕の従兄弟。分かった?」
「いいのか」
「なにが?」
「俺はここのところずっと俺のままだぞ」
殴ってスッキリする役にも立たないぞ。
「うるさいよ。今となったらハリーが出ない方が都合がいい。買ったばかりのアパートを壊されたらたまんないよ」
刺々したクレイの声が耳に辛い。放置していいから、最期くらい優しい声が聞きたかったな、とトムは眠気に襲われつつ呟く。
「最期じゃないよ残念ながら。栄養足りなくて馬鹿になったのかよ。こんなガリガリになってさ。運びやすいのだけはましだけど」
朦朧としつつ、トムは手を上げ、初めてクレイの頭を殴る。もちろん体重が乗るどころかヘロヘロと当たっただけだが。
「トム?」
「ふざけんな。お前が放置したからだろうが」
「うん、ごめん」
いきなり今度は謝られて戸惑う。
「・・・やっぱりおまえって変だ…」
「うん、そうなんだ」
話しながら廊下を過ぎ、階段を下りる。
クレイとトムしか居なかったこの空間から出ることが、不意に酷く怖くなった。
「出たくない」
呟くと、また怒り出すかと思ったクレイは、しかし怒らずにぶっきらぼうに言った。
「どうせ場所が変わるだけだ。あんたは僕の部屋にいて、外に出るなよ」
「足枷は」
「つけてろ」
トムを抱える腕に心なしか力が入る。
「なら、いい」
言ってトムはそっとクレイの胸に顔を押し付ける。
久しぶりに見る、労働者風のよれたシャツ。
もしも自分が死んでいたら、どこかに埋めようと思ってこのシャツを着てきたのだろう。
繋げ。
縛れ。
俺を。
もういい。クレイに繋がれ、他のものは見ない。
あの時感じた、奇妙な安堵だった。
END
・・・というわけでですね。
全然別物設定で書き出したのに、なぜかやっぱり同居にいきついてしまう自分の頭に慄いた去年の秋でございました。
書きながら自分で凄く気になったのですが水は出るのでトイレは大丈夫ですよ!お湯までは出ないだろうけど身体も洗ってるし、クレイは着替えも持ってきてるからくさくないと思うな!