クレイと暮らし始めるまでの生活で、トムは一切料理をしたことがない。
生家では家事は女の仕事とはっきり分けられていたし、療養所では出されるものを口に運ぶだけだった。その後の逃亡生活では料理どころではない。
玉ねぎとニンニクを小さく刻み、オイルをたらした鍋に放り込む。
小さく火を絞るとトムは手を拭いて1度テーブルに座り、ちょっとパソコンを操作してから鍋の前に戻った。
トムが料理をするようになった理由はいくつかある。
一つは暇潰しだ。クレイが働きに出ている時間帯に、トムは正直することがない。
二つ目はコストだ。この街に留まることにしたとき、クレイとの取り決めでトムは自分名義の口座からの引き出しを止めた。手元の資金をネット取引で回してはいるが、外食や惣菜を多用すると金が持たない。
コスト、という単語に昔のことを思い出す。父の会社の会計士が、よく帳面をしかめつらしく示してはコストがコストがと言っていた。
母はとうに亡くなったが、もし今トムの姿を見たら驚くだろうか。それとも「ハニガー家の男が台所に立つなんて」と嘆くだろうか。とろ火で鍋の中をかき回しつつ、ちらと考えた。
「ただいま!」
ドアの開く音とひんやりした空気、クレイの声が一斉に入ってくると、部屋の中が一気に賑やかになる。
上着の前を開けながら入って来るクレイを見て、トムは小さく笑った。
フリーマーケットで見つけたジャケットの下のスーツ姿が、すっかり板についてきたと思う。
最初に出会った酒場で、共に日雇い仕事を転々としていた自分たちを思い出すと、なんだか妙な気分だった。あの頃想像もしなかった今の姿だ。
少し古びたジャケットを着て、険しい顔をしていたクレイはスーツを着たオフィスワーカーになり、自分は鍋の中身をかき回している。
「良い匂い、なに?」
「チキンのトマトソース」
覗きこまれてシンクの上に貼り付けたレシピを示す。
「すごいね。作るものが段々レベルアップしてない?」
「俺もそう思う」
真面目に答えるとクレイが笑い、頬に音をたててキスをした。
「おい」
「なに?」
珍しく生家のことなど思い出していたせいか、帰宅した父がキッチンに立つ母にキスしていた光景が浮かんでしまった。
母の位置に自分がはまるのはおかしい。絶対におかしい。
戸惑って呼びかけると、悪気なく聞き返される。
意外そうでもないその表情から、無意識のことではなく、確信犯と知れる。
「それはさすがに変じゃないか?」
「恋人なんだから変じゃないよ」
けろりと返されて困る。
「そういうのは女と付き合ってる場合だろう。・・・変だと思うぞ」
「いや?」
「・・・いやと言うより変だ」
言うとクレイがクルリと目を丸くする。
「でも、僕はしたい」
クレイにそう言われるとトムとしては困る。このタイミングで男相手にするのはどうなんだと思うだけなのだ。
「後ですればいいだろう」
セクシャルな意味合いでのキスならいくらでもしている。
「トムはいや?」
反論してみるがあっさり返される。違和感は大いにあるのだが別に嫌ではないのが弱い。
「嫌ではないけどな・・・」
「良かった。そしたら慣れてよ」
押し負けると嬉しそうにクレイが笑い、もう一度「ただいま」と言いながらキスをする。
「おかえり」
そう返すと満面の笑みが返ってきて、まあいいかと思ったトムは同じようにキスを返す。と、なぜかクレイが赤くなって硬直したので、おかしくなったトムは声を立てて笑った。
だが数日後。
帰ってきたクレイは固い顔でキッチンに入ると、(ただいまのアレが来るか)と身構えたトムの横を素通りして真っ直ぐ窓に向かった。そして無言でブラインドを閉めてまわる。その断固とした動きをきょとんと見ていたトムは、一拍おいて追っ手が来たのかと思い当たる。
そういえば通りが見下ろせるこの窓は、灯りをつけると外からよく見えそうだ。
トムは青くなったが、クレイは逆にブラインドを閉め終わるとやれやれという顔になり、安心したようにトムに腕を回してきた。
タイミングがずれて逃亡態勢に入ったトムはクレイの腕に抱え込まれてじたばたする。
「おい、なんなんだ」
「ただいまトム」
「追っ手は?」
トムと反対にすっかりくつろぎモードに入ったクレイはトムの髪に鼻を埋めていたが、その辺でトムの強ばった様子に気づいた。
「あ。ごめんトム。違うよ、追っ手じゃない」
「そうなのか」
トムはほっとして良いものか確信が持てずに戸惑う。
「じゃあ、どうしたんだ?」
「出歯亀だよ!」
全くもう、と憤慨したように言いながらクレイは閉めたからもう大丈夫、と改めて例のただいまのキスをする。
トムはさっぱりわからない。
「どこに?」
「外だよ!」
聞けばたまたま陽が暮れた後、外を通った知り合いが、キッチンに立つトムを見たのだそうだ。
何を思ったのかそのまま見つめ続けていたら、クレイが帰ってきて同居人とわかったという。
「凄い美人で羨ましい、なんて言うんだ」
憤慨するクレイに、トムは情けない顔をする。
「そいつ、見たのか。・・・そりゃあ気の毒に」
男二人が窓際でキスなんぞしている姿を見てしまったら、さぞかし気色悪かっただろう。
「閉めておけば大丈夫だから」
「そうだな」
『毎日目の保養にしてたのに、お前の恋人だったとは』
そんなことを抜かした近所の店員にきっぱりと「手を出すなよ」と言い渡したクレイと、そんなもん見てしまったら公害だと思うトムは、互いに相手の胸中を理解できないまま、それでも平和に今日の夕食にとりかかる。
「なにこれ!?」
「ビーフストロガノフ」
「食べたことないよこんなの」
「昔、結構好きだった。お前も多分好きな味だと思うぞ」
「なんか、トムは舌が肥えてるよねえ」
クレイがわあわあと喜ぶので、トムは生家での暮らしがあって良かったと時々思えるようになってきた。
株の取引はパソコンに張り付き過ぎず、時々鍋でも見ていた方がトムには勝率がいい。料理をする、三つ目の理由だ。
いつまで続くか分からない。いつでも出て行けることを考えつつ、この街で2度目の冬が来ようとしていた。
End
そんなわけで、クレイとクレイんとこの居候はひっそりとこの町で生きているのです。
あんまり知り合いが増えたら引っ越すんだろうなあ。
[21回]