こんなことは知りたくなかった。
キスをしながら身体を辿られるとぞくぞくする。触れる手のひらの乾いた感触。
時間をかけてぐずぐずに溶かされ、意地も張りも無くして全てを委ねる時の安堵感。
そんな様を晒すどころか、あろうことか欲しがるようになった弱い自分も知りたくなどなかった。
久しぶりの愛撫は優しい分ひどくもどかしい。
「ディーン」
晩生だと思っていたサムは、一線を越えてしまうとむしろベッドのなかでは容赦ない。柔らかく暖かい身体と楽しむ行為と同じモノとは思えない時間。硬い腕に容赦なく暴かれることにも、もういい加減勘弁しろと泣きを入れることにもいつしか慣れてしまった。
抱き合っている時間にどんなことをしようと言おうと夜だけのこと、そんな基本的なマナーがどうにも足りない相手はどんどん付け上がり、ディーンをまるで守るべき相手のように扱う。
俺は弱くない。守られなくちゃいけない者でもない。
それでも。
途切れた愛撫に目を開くと、視界に覆いかぶさる黒い影。
じりじりと焦げ付かせるような熱のままにその首に縋りついた。焦らすなと詰りかけ、
・・・・・驚いたように目を見開くその顔と、着衣のままの自分の腕に気づいた。
ウギャーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!
ディーンは心の中で絶叫する。血の気が引くとはまさにこのことだ。
夢か!
今のを夢に見たのか俺は!?
痛い。痛すぎる。もしかして痛い夢を見る呪いにでもかかったんじゃないだろうか。自発的に見たとは思いたくない。
しかも何でちょうど同じような位置にいるんだサミー、紛らわしい。
今、何か言っただろうか。
サムの名前を呼んでしまっただろうか。
視線を動かして周囲をうかがえば、灯りを落としたモーテルの部屋だ。
明日の調査の資料を見ている間にうたた寝してしまったらしい。
ディーンはそうっと、サムの首に回していた腕をほどき、この状況をどう取り繕うか考えながら口を開きかけた。
が、
「大丈夫?ディーン」
先に静かな声で聞かれて戸惑う。
今、サムはどっちだ。とっさに判断がつかない。
「うなされてた」
言いながらちょっと眉を顰める顔を見て、弟だと分かる。その声に嫌悪の色がないことにディーンは胸を撫で下ろし、そんな自分に歯噛みした。
「・・・なんか言ってたか、俺は」
「なにも。なんの夢見てたの?」
咄嗟に顔を見返す。ベッドサイドの灯りはごく小さく絞られていて、サムの顔も半分影になって見えづらい。
「・・・大量の美女の相手でもみくちゃになってた」
考えてみればディーンが桃色の夢を見ること自体はばれても別にどうということもない。相手がサムであったことだけ、知られなければよいのだ。
無理矢理口の端を上げ、意識してにやけた表情を作るが、弟はふうん、と小さな声を出したきりだった。
「あーあ、イイとこで目が覚めちまったぜ」
思ったような反応は返ってこないが、それで通す。残念そうな口調でぼやき、改めてシーツをかぶった。
意識して女の子と遊ぶのは止めたが、禁欲生活というほどの間は開いていない。
だというのになんてこった。よりによってあの頃の夢か。
服を着たままなのが今更気になるが、動く気になれない。
背後で自分のベッドに戻る弟の気配を感じながら、ディーンは固く目を閉じた。
なんだったんだろうあれは。
サムは灯りの中に浮かび上がる兄の背を見ながらぼんやりと考えた。
ディーンは美女に囲まれる夢だと言っていたが、どう見てもそんな感じじゃなかった。苦しげに呻く声が気になって覗き込んだとき、ちょうど兄が目を開けた。
咄嗟にサムが分からなかったのだろう。見慣れた碧が潤み、泣き出す寸前のような顔をして手を伸ばしてきた。
まるで縋るように首に回された手。開きかけた口は、何を言おうとしていたのだろう。
抱きしめればよかった。
ぽかん、とそんな思考が浮かび、サムは混乱する。
何を考えてるんだ僕は。あの兄貴相手に。
否定しようとするが、さっきの顔は強烈だった。見慣れすぎて普段はなにも感じないが、顔の作り自体はえらくいいのだうちの兄貴は。
呪いにかかって以来サムは時々幼児返りをしてしまうらしく、気がつくと兄にしがみついたり、寝床にもぐりこんだりしている。
相手の反応によっては本当にいたたまれなくなりそうなその異常な行動を、何とか気にせず過ごしていられるのはディーンが流してくれるからだ。
だから兄にもなにかあるのならば、自分もできることを返したい。
頭を撫でられたりする子ども扱いのスキンシップは御免だったが、自分が相手を抱きしめることは想像しても抵抗は感じなかった。
ちらりと隣に視線を向ければ、目が覚めてしまったらしい兄の背中。
今度あんな風に寝ぼけた兄にしがみつかれることがあったら、ちゃんと受け止めよう。そのまま一緒に寝てしまってもいい。
いつかのように起きてから散々嫌な顔をするだろうが、あんな顔を見た後、放っておくのも落ち着かない。
そう。僕があんな顔のディーンを一人で放っておきたくないんだ。
何となくその考えは自分の中で腑に落ちて、サムは満足して目を閉じた。
そして翌日。目が覚めたサムは「夫」だった。
「おはよう」
起きた途端、緩やかに抱き込まれ、顔中にキスが落とされる。やっぱり無精ひげが痛い。
何も言えずにディーンはため息をつく。
これは絶対に昨夜のアレのせいだ。蟻に砂糖。鮫に血の匂い。・・・もっと他にいい例えはないものか。
とにかく昨夜のディーンの様子がきっかけで出て来たに違いない。
「どうかした?」
そっと頬に当てられる手に眉をしかめる。撫でるな。
「どうもしねえよ」
出てきてもつけこませる気は毛頭ない。今日はFBIに扮して聞き込み調査だ。サムを引き剥がすと簡単に洗面し、着替えて適当なタイを手に取る。
するとサムが、
「こっちの方がいい」
と別の一本を首にかけてきた。そのまま長い指が器用にタイを結ぶ。
「ちょっと首上げて」
柔らかい癖に、有無を言わせない口調が指示する。
どうだっていい、タイの色なんて。
思いながら顎を上げ、相手の好きにさせた。頬に、首に微かに指が触れ、体温が伝わる。
「ほら。こっちの方が似合う」
にっこり笑って、そのまま近づいてくる顔。目尻とこめかみに触れる感触。
朝っぱらから。シャツに皺が寄る。
叩き落とす理由はいくらでもあるのに、昨夜の飢えのせいか動けない。
黙って緩やかに抱きしめてくるサムは、昨日の記憶があるのだろうか。数十秒か数分か、ディーンが身じろぎするまでそれは続き、ディーンが動くのに合わせて腕が解かれた。
まるでディーンをなだめ、満たすためだけのような抱擁。
「・・・行くぞ」
しつこくその息や体温に向きたがる意識を叱咤して、部屋のドアを開けた。
「FBIのクーパー捜査官です。お話を伺いたい」
サムが慣れた様子でIDを提示し、聞き込みをしている。若すぎる、と怪しまれることもめっきり減った。黒っぽいスーツを着て、物柔らかに情報を確認して行く様からは「夫」だか「弟」だかの区別は付かない。どちらであれ、『サム・ウィンチェスター』であることに変わりはないのだ。
ちょっとぼうっとしているとサムに目顔で促され、ディーンは別の角度から質問に加わった。
調査の結果はほぼ予想通りで、狩の対象も大体つかめた。スーツで日中活動するのは今日まで、明日は夜に墓堀りだ。油や塩、ライター等、必要物品をチェックしてモーテルに戻る。
部屋の前まで来た時、ディーンは微かに緊張した。
サムは当然ながらまだ「夫」だ。スキンシップも解禁済みの今、二人になることに突然怯む。しかしながら部屋の前まで来て帰らないわけにも行かない。自分が何を恐れ、避けたいと思っているのかも次第に分からなくなってくる。
大事なのは弟であるサムを守ること。
最終ラインは死守。
その二つだけ脳内で繰返し、部屋のドアを開けた。隣に立つサムは何も言わない。
交代で風呂を使い、帰り道に調達してきた夕飯をとりつつ明日の打ち合わせをする。何故か今日は時間の進みが遅く、まだ早い時刻だと言うのにすることが無くなってしまった。ベッドの上では昨日の二の舞になると思い、ディーンは既に一度読んだ新聞を持ってソファーに移動する。テレビもつけるが残念ながら大して目新しい報道もない。映画でもやってればいいのに。
一方のサムはのんびりビールを飲みつつネットを検索していたが、それもひと段落ついてしまったようで新しい瓶を持って、ソファにやってくる。
「はい」
とディーンに1本手渡してきた。
「サンクス」
微かに振り向いて受け取る。何となく顔を合わせ損ね、そのままテレビに視線を戻す。
何を今更こんなにびりびりと緊張するのか、自分でも訳が分からない。
しっかりしろ、ディーン・ウィンチェスター。
父の顔、母の顔、小さなサミー。
自分の役割を思い出せ。
なんだか果てしなくめり込み始めた物思いを、隣のバカサムがぶち壊す。
「そんな顔しないの」
こともあろうに「めっ」とか言いながら額をつついてきた。
め、じゃねえ!いたずらした幼児か俺は。
めり込みが瞬時に怒りに変換され、しかし向ける先が分からずにディーンは新聞を睨みつける。
「ごく普通のことだと思うよディーン」
「何がだよ」
唐突に言われて、うっかり振り向いてしまった。穏やかなサムの顔はほんの微かだが呆れたように見える。両手がディーンの顔を包み、正面から視線が合った。
「僕だってディーンに触れたい。我慢してれば抱き合う夢も見るよ」
こつりと額が合う。
今更ながら、こいつは昨日のアレをしっかりわかっているらしい。
「・・・しねえぞ」
「それでもしないんだよね」
声が重なり、しょうがないねえ、と言いたげな顔でサムが笑う。そして額に軽く唇が触れる。
「狩りに響かないように気をつけるよ?長くしないとか」
「・・・・そういう問題じゃねえ」
「そう。・・ねえ、ホッとしたって言ったら怒る?」
「何が」
「ディーンが僕の夢を見てくれたのが嬉しい」
「殴るぞ」
「いいよ」
腕に力が加わって、ごつい胸に抱きすくめられる。これじゃ殴れん。しばしジタバタした後諦めて背中につかまった。サムの肩越しに窓から空が見える。
いつの間にか自分よりずっと広くなった肩。伝わってくる心音。
スキンシップに弱いのは元からだ。キスも。いつの間にやらその先も慣れてしまったらしい。
しみじみと、あの家での時間は自分にとって致命的だったのだと思う。
「ねえ」
「なんだよ」
顔を見ないまま会話を交わす。
「いつか、色々片付いたら、またあんな家に住もうね。狩を休んで」
「片付いたらな」
「その時には、今どうしてディーンがそんなに辛そうなのに我慢してるのか教えて?」
「・・覚えてたらな」
限りなく有り得ない約束。
そんな先にも呪いが続いたらサムが困るし、続かせない。だからお前が今日のことを尋ねることもない。
俺の苦しさは自業自得。お前のそれは錯覚だ。
兄の苦労も知らず、錯覚にやられた弟が、これはいいんだよね、と抱きしめる手を強くする。ぐえ、と思わず声が漏れた。
「ごめん」
サムがちょっと情けない顔をして腕を緩める。
「お前、手加減とか気をつけるとか、絶対に口だけだろ」
この際なので、ずっと言いたかったことを言ってやると、ますます眉が下がった。ざまを見ろ。呪いの反動で死なないと思うと、この辺の遠慮が要らないのは気持ちいい。ついでに昨夜のもやもやを断ち切ってやれと、その首にほんの一瞬、しがみついた。
「ディーン?」
サムが抱き返す暇もなく離れる。
何となく昨日から続いた飢えた感覚が消え、得体の知れない緊張感も失せていた。
スキンシップ不足でおかしくなるのは、どうも夫だけではないらしい。
珍しいディーンからの行動に、目を丸くしているサムに笑ってやる。
「俺もう寝るぞ。明日は墓掘りだしな」
深く考えたらダメだ。
よくわからんが、俺の中の危機は回避された。めでたい。
そして「夫」は、良くも悪くもてきとーなこじつけで納得してくれやすいのが美徳だ。なにか言われても後で何とでもなる。何となくすっきりしたこの瞬間に寝てしまおう。昨日とは打って変わってさわやかな心境で、ディーンはシーツにもぐりこんだ。
「うん、お休み」
そして答えるサムも、急に抱きつき、急に離れて寝にかかるディーンに文句を言うわけでもなく、ゆっくりと寝支度を始める。
幸か不幸か、その脳内をディーンが知ることはなかった。
何となくぼんやりして、サムはシャツを脱ぎ、ベッドに腰掛けていた。
兄がまた、誰かと間違えて手を伸ばしてきたら、代わりでもいいから抱きしめようとは考えていた。でも、あまりはっきり覚えていないがついさっき、兄をまさに抱きしめていたような気がする。しかも、その髪の毛や、頬の感覚まで手のひらに残っているような気がする。そして兄が昨日の続きのようにサムの首にしがみつき、気がすんだというように笑った顔が。
「・・・あれ?」
今日はFBIに扮して調査をしていた。明日は昼に準備をして夜は墓で霊の本体を掘り出さないといけない。今日の記憶には特に何の不思議も無いのに、さっきの兄を抱きしめていた感覚だけがあやふやだった。
(・・まさか突拍子もないこと考えたから白昼夢でも見たんだろうか)
なんだかそれも無理がある気がするが、甘えるように見えた兄の映像も、無理があるといえばありまくりだ。
膝に置いた手を見た。
時間がたつほどに、兄に触れた実感は薄くなる。
ほんの2歩先に見える見慣れた頭。手を伸ばしてあの短い髪を梳いてみたら、たぶんあの感触が夢か現実かわかるだろう。
・・・だけど、寝てるところに突然弟に頭を撫でられたあとの兄の反応は、シュミレーションするまでもなく、静かな夜向きではないような気がする。
どうしよう。
サムはしばらくの間、じっと手のひらと兄の頭を交互に見ながら悩んでいた。