----息が止まるかと思った。
なんだか酷く悲しい気持ちで、誰かの肩を掴んでいる。
悲しくて憤って、どこかで諦めて、それでも愛おしい。
そしてそれでもひどくはっきりと、相手を信じていた。
涙が鼻を伝って落ちるのを感じた瞬間、急に視界と意識がクリアになる。
涙の落ちた先にあったのは、なんとも言いがたい表情をした、兄の顔だった。
・・・・・・・・・・・・・
親しき中にも礼儀ありと言うように、例え兄弟といえども最低限の礼儀は必要だ。
「臭い」
例えば、機嫌よくモーテルの部屋に帰って来た相手に、そんな台詞をぶつけるのは失礼極まりない、とディーンは思う。
「香水の匂いなんかつけて帰って来るなよ」
シャワーはしたぞ、とパソコンの前で腕組みする弟に言いかけて止める。多分上着に香りがついているのだろう。
ちょっと肩をすくめて上着を脱いだ。
鼻を近づけて嗅いでみる。いい加減麻痺していることもあるだろうが、大したことは無い。もともとさっきまで一緒にいた彼女はそれほど強い香りを付けていたわけではなかった。
「匂い」は狩りの中でも、日々の警戒の為にも重要な要素ではあるので、兄弟はもちろんジョンからあれこれ叩き込まれてはいた。
しかし、生来の感度はサムの方が高く、今の場合それが余計に弟をいらだたせるのだろう。
「夫」に「ベタベタすんな」令を出して以来、ディーンは何となく続いていた禁欲生活を反省し、時間と事情と体力が許す限り女の子と遊ぶようにしていた。
「最近おかしくないか?発情期の猫じゃあるまいし、狩りの無い日はひっきりなしじゃないか」
不機嫌そうな弟は、これまた失礼なことを言う。
諸々の条件が揃う日はそう多くないので「ひっきりなし」とは大げさだとは思うが、確かに狩りの無い日にサムと二人で過ごす頻度は激減している、・・・というかほぼ無い。
「発情期?そういやあそろそろ春だしな」
ふん、と鼻を鳴らして聞き流す。そういうことにしておいた方がいい。
少しばかりの義務感を伴った一夜の遊びは、「恋」というよりまさに「遊び」で、一緒に朝まで過ごすほど気の合う相手とはめぐり合えずにいる。
狩りの中で知り合った中にも、好意を向けてくれる女性はいるのだが、そういった相手とどうこうなるのにはディーンの方で何やら罪悪感めいた思いが芽生えてしまい、結果として品行方正な子供向け番組のヒーローのように、せいぜい頬に感謝のキスをもらうくらいで終わりとなっていた。
だけどそんな諸々はサムに伝えようも無い。発情期、と思われていれば簡単だ。
「息抜きは必要だぜ。お前も少しは遊べばいいのに」
どうせ聞きはしないだろうが、一応言ってみる。
これまた本当にそう思っているというよりは、「前の自分ならそう言っただろう」と思うからだ。
「いらないよ」
予想通りのトゲトゲした声が返ってきて、背中を向けたままちょっと笑った。
バスルームで歯を磨いていると、サムがパソコンの電源を落とした気配がする。
それが何となくディーンの帰りを待っていたように感じられ、そんな事に敏感になっている自分自身がひどく鬱陶しかった。
小さいサミーが膨れっ面に不安そうな色を浮かべて待っていたあの頃と、同じだと思えればいいのに。
部屋に戻るとベッドに腰掛け、靴を脱ぐ。シャツを脱いだところでふと視線を感じると、サムが同じく寝支度をしながらしかめっ面をしていた。
「なんだ?お前眠くて機嫌悪かったのか」
そんなわけ無いと知りつつ口が動いてしまうのは、兄の性としか言い様が無い。
「そんなわけないだろ」
だが、今度は返ってきた声が予想と違った。
哀しみを押し殺したようなその声は、
(うげ。)
ほんとーーーーに悪いが、ディーンのその瞬間の率直な感想はそれだった。
頭も打っていないし、イベント日でもない。綺麗な風景やら、星やらが出ているわけでもない。
なぜ、こんな瞬間に「夫」モードになるんだこのバカサム。兄弟らしく悪口を応酬してプンプンと寝ようじゃないか(俺は別にプンプンしないが)。
そんなディーンの心の声が届くわけも無く、サムは悲しげに見詰めてくる。
「こっちに来て」
ちょっと腕を広げてサムが言う。
「そういうのは無しだって・・・」
「外では、だろ」
語尾に被せるようにきっぱり言われる。
「僕は約束を守ってる。おいで、ディーン。お願いだから」
サムと言う生物は、何故“Please”と口にすれば他人が言うことを聞いてくれると思いこんでるのか。
そして何故兄という生物はそれに応じてやらないといたたまれないような気分になるのか。
誰か教えろ、と思うと同時に、そんないらんことを知っている奴がいたら、即座に抹殺してやりたいとも思う。
思考を逃避させながら、ディーンはゆっくりと謎の生物の要求に応えてやった。
といっても立ち上がって一歩足を動かし、サムの隣に腰掛けただけの話だ。
伸ばされた手は取らなかった。取ったらまずい。とにかくまずい。
「結婚してることを、外では言うなって言ったよね」
「ああ」
「それはまだわかるんだ。色々言う奴もいるし」
「だろ」
「だけど、ディーンが外で他人とどうこうするのを見てるのはやっぱり辛い」
「それは」
「前も話したよね。覚えてるよ」
いや、そんなにはっきり覚えててくれなくていい。
「だけど、あの家で僕と過ごした時は大丈夫だったよね?」
「・・・・・」
だから覚えてなくていいっつーの。
隣に座りつつ、視線は合わせない。ほだされたら負けだ。ウルウルした目なんぞ見ないに限る。
「それでも、僕じゃダメなの?」
「・・・だめだ」
負けるな、俺。
そりゃ考えれば矛盾はありありだが、弟の明るい未来のためだ。
考え込んでいて、肩に回った手に反応するのが遅れた。
とすん、と後ろに倒される。
そういえばここはベッドだった。瞬間血の気が引く。
「何もしないよ。約束だから」
両肩を掴んで覆いかぶさったサムが言う。
「それでも、あなたは僕のものだよね」
「・・そーだよ」
「僕はあなたのパートナーだよね」
「ああ、そうだな」
答えた瞬間、サムの顔がちょっと歪んだ。灯りを背にしてもその目が潤んだのがわかり、頬に濡れた感覚が落ちる。
そしてその瞬間、肩を掴む手が微妙に震え、見上げた先の表情を見て、
サムが『変わった』のが分かった。
実の兄をベッドに押し付けて、泣いている自分に呆然としている。
こ・・・んちくしょう・・・・!!
なんてタイミングで変わりやがるんだお前。
ディーンは咄嗟に腹を決めた。
さっきは触れないように両脇に投げ出していた手を持ち上げ、脅かさないよう、ゆっくりとその頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
サムの目に残っていた涙がパタパタと落ちた。
「大丈夫だ、サミー。夢だ」
「な・・・に・・が」
「お前が見たもの。何かは知らねえけどな」
「ディーン」
「おお」
「僕は・・おかしくなったのか」
「いんにゃ、寝ぼけただけだろ。俺がバスルームから出てきたときはここに座って寝てたぞ」
言うと、怪訝そうに考え込む顔になる。多分、寝支度をする辺りまでは記憶があるはずなのだ。
「そうだっけ・・?」
「眠いなら先に寝てりゃいいだろ。ほら、寝るぞ寝るぞ」
肩の手をどけると起き上がる。ついでにバシバシと背中を叩いてやると嫌そうに顔をしかめた。
「お兄ちゃんがいなくて寂しかったんだなサミー。大丈夫だ、兄ちゃんはちゃんと帰ってきただろう」
わざと小さい子をあやすような口調で宥めると、効果覿面で見る見る不安そうな顔に不機嫌顔が戻ってきた。
「よせって」
ぐい、と押しのけられ、けけけと笑う。
「電気はお前が消せよー」
言うと不機嫌な沈黙の後、灯りが落とされた。
見上げていた兄の顔。
目を見開いた弟の顔。
互いに諸々を飲み込んでシーツにもぐる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「呪いの後遺症だろうな。だが心配いらんだろう」
翌日、やっぱり引きつった顔のサムが言い出して、二人はまたもやボビーの家に来ている。
そしてボビーおじさんは頼もしくきっぱり言い切った。・・・かなりあっさりと。
「でも」
言い募るサムの前にびっと指を突きつける。
「どうも聞いているとお前の後遺症はディーンの前でしか出ない。そして別に危害を加えるわけでもない。赤の他人なら問題だろうが、ディーン相手にトラブルにはならんだろう」
それより手伝え、と資料を渡され、サムはやや不満顔で仕事にかかった。
本当に忙しいらしく、武器庫に降りて行くボビーを、今度はディーンが追いかける。
「どうしたらいいと思うボビー」
「別に、そのままで構わんのじゃないか」
おじさんは薄情にも道具箱の中をいじりながら背中で答える。本当に最近扱いが軽い。
「あえて言うならだ」
持て、と鉄製の棒を渡されて受け取る。ボビーは錆びた槍状の武器をしげしげと検分したあと、それも渡してきた。かなり重い。
「お前が呪い状態のサムに何か抑止をしようとして今度の状態になったのなら、抑止をやめてみたらどうだ」
「うー・・・」
扱いが軽くても言うことが鋭い。
「鬱憤がたまって、正常な状態のサムに無理矢理食い込んで来たと考えれば、たまらないようにすれば少なくとも今まで並に収まるんじゃないのか」
「・・・・・・・・・・・・」
だってボビー、あの野郎隙あらばベタベタして来るし、ベタベタするところまで行っちまうとその後が止め辛いんだけど・・・・
言いたいが言えない。そしてどうせ言ってもアドバイスは変わらない。
スキンシップ禁止が悪いのか。
おねーちゃんと遊ぶのが悪いのか。
どっちにしろ、弟の不安軽減のためには止めろと言う事らしい。
仕方が無い。
兄というのは弟を守らないと落ち着かない損な生き物なのだ。
ディーンは深々とため息をついた。
おしまい
・・・と、いうわけでまた夫とのスキンシップの日々が戻ってくるわけですね。目出度い。(・・のか?)