目を開くと至近距離に兄の寝顔があって、サムはひっと息を呑んだ。
またやってしまった。
微かに口を開き、平和にぐうぐう寝ている兄を起こさぬよう、そうっと周囲を見回す。
まだ夜明け前のモーテルの室内は、エアコンが動いていてもひんやりと寒い。
薄暗い室内でベッドの位置を確認すれば今回も他人のベッドに入り込んだのは自分の方だ。
なるべくシーツを動かさないように兄の隣から抜け出し、自分のベッドに戻る。
一体どのくらい前に移動したのか、シーツをめくり上げたままの寝床は冷え切っていた。
敵の呪いにかかったサムが正気を取り戻してから、3ヶ月以上たっている。
今も時々起こる不随意運動は、他人にやらかしたらかなりのトラブルになりそうだったが、幸か不幸か相手が兄にほぼ限られているために、何事もなく頻度を減らしつつあった。
普通なら酷くからかいそうな兄なのだが、どうもサムが呪いにかかっている期間に相当な心配をかけたらしく、この件に関しては一切絡んでこない。
先日、初めて兄のベッドで目が覚めて仰天したサムが思わず声をたてたときも、目を開けたディーンはちょっと心配するかのように眉をひそめたが、
「幼児返りでもしたんじゃねえか」
あっさりと言うと、しっしと手を振り、向こうを向いて寝なおしてしまった。
未だに気遣わせている。
それを多少疎ましく感じながらも、いい年をして兄のベッドに潜り込むなど、追究されればそれこそいたたまれない。
不経済ではあるが、いっそ部屋を分けた方がいいのだろうか。
サムはなかなか暖まらないシーツの中で足を擦り合わせながら、そんなことを考え続けていた。
「そっち、皿出せ」
「うん」
軽く温め直した肉とシチューを紙皿に取り分ける。
キッチンつきの部屋に泊まった時に簡単な食事を作る習慣は、サムが覚えていない療養生活の、ほぼ唯一の名残だ。
「やっぱりスプーンくらい買おうよ」
「いらねっての。さっさと食え」
文句を言い合いながらも一緒にテーブルに座って食事を取る図というのは、ベッドの上でバーガーをかじるよりは随分と人の生活としてまっとうなものに思える。
サムが目をさました時は、狩を休んでいたことを始めもっと色々なことがあったが、サムが(多くは肯定的だったのだが)驚きを口にするたびに、ディーンはそれらをきっぱりと止めてしまった。
食器類も揃えてあったのだが、
「俺のインパラにこんなもん積めるか」
と、家を引き払う時にディーンがまとめて捨てた。サムが見たところ軽くて丈夫なそれらはインパラの座席の隅に置いてもそう邪魔になるとも思えなかったが、看病が終わっていかにも「せいせいしたぜ!」と言いたげな兄の背中を見ていると、世話をかけていたらしい身として細かいことは言いづらかった。
「で、さっきの件だけど教会の話からすると、間違いないね。いつにしよう?」
「本体見つけて狩るだけだからな。早い方がいいだろ」
「じゃあ今夜?」
「だな。弾は予備作ってあったか」
ゴロゴロとした野菜や肉を頼りないプラスチックのスプーンで追いかけつつ、話す話題は今夜の仕事だ。呪いが解けてしばらくはのんきな旅をしていたが、寒くなりだした頃からやたらと「仕事」が多い。
「食ったら出かけるぞ」
「了解」
パンをちぎってシチューの残りをこそげる。
(黙ってスプーンを買ってしまえばディーンも何も言わないかな)
狩りの手順を組み立てる頭の隅で、サムはそんなことを考えていた。
・・・・・・・・・・・
破裂音がして、ディーンが振り返ると、窓枠と共にサムが吹っ飛ばされたところだった。
「サム!」
慌てて駆け寄って引っ張り起こす。こんな所で倒れたら狙い撃ちだ。でかく育った弟はとても狙いやすい的になるだろう。
失神している頬をばしばしと叩く。銃を持った方の手じゃないのは兄の情けだ。
と、気がついたサムが頬を叩く手をそっと抑えて戻してきた。
「大丈夫だよ、ごめん」
「?」
奇妙な殊勝さにふと違和感を感じたが、今はそれどころではない。
「お前、さっきの部屋の写真立て燃やせ。やっぱりあれが本体だ」
「わかった」
もう一度室内に駆け込んでいくサムを背に庇い、ディーンは迫ってくる霊に向けて再度銃を構えた。
やがてサムが無事本体の始末を付けたらしく、目の前の霊は燃え上がって消える。
ディーンがやれやれ、と息をついていると、サムが戻ってきた。
「凄い泥だ」
ディーンを見て手を伸ばし、頬の辺りを擦る。
なんか変だ。
俺の弟は絶対に兄貴の顔の泥を拭くタイプではない。
ディーンが凝視する先でサムはちょっと笑い、
「どうしたの」
と手を伸ばして軽くディーンを抱き寄せる。
まさかまさか
思っているととどめのように頭にキスが降って来た。
馬鹿サミー!お前またかーー!
ディーンは心の中で絶叫する。
頭の中に駆け巡る様々な可能性。
新たな呪い
記憶の混乱
弟の悪ふざけ
いや待て、落ち着け。まずは確認だ。
「お前・・・」
「なに?」
穏やかな笑みが心臓に悪い。
落ち着け。落ち着くんだ、ディーン・ウィンチェスター。何が起こったにせよ、狩りの現場に長居は無用。そう、まずはさっさと撤退だ。
「・・戻るぞ」
確認は安全な部屋に帰ってからだよな。そーだ、それがいいぞ俺。
車に向かうと右手と右足が一緒に出た。
落ち着け!
力が入り過ぎたのか、今度はつまずいてよろける。
「大丈夫?」
支えようとしてきた手を振り払った。
そんなことされなくても、俺は一向に困らん。そんなことをしない弟のままで十分なんだぞサミー。
モーテルに戻って、シャワーを浴びて一息つくと、状況確認以外することがない。
さあ、どうやって確認しよう?
「ディーン」
と、そこに当の本人が手当てを終えてやってきた。ディーンの横に座りビールを一口飲む。
「僕はちょっと混乱してるんだけど確認していい?」
奇遇だな。実は兄ちゃんも今びっくり仰天大混乱中なんだぜ。
「いつの間にベッド分けるようになったんだっけ」
そこかー!
というか、お前やっぱりかー!
今日の相手は単純な霊だったはずなのに何でだ。何がどうなったのかサムはどうやら今また「夫」モードになっている。
無意識に身体が動いたらしいことはちょくちょくあったが、これは明らかに違う。しかも前回の呪いからしっかりいらん記憶が続いてる。
「指輪も外してるし」
サムがディーンの手を取り、自分の手と見比べながら不思議そうに言う。
売りました。
シルバーだったので本当に二束三文だったぞサミー。
その夜酒に変えて飲んだだろう、と追い討ちをかけたくなったが、言うのはやめておいた。
そういえば何を感じたんだか、サムはあの酒を一口も飲まなかったことを思い出す。
黙っていたらサムが、
「フロントに言って部屋変えてもらおうか」
と、立ち上がりかけるので必死に止める。
そしてとりあえず例によって、
「全部話し合って決めたことじゃねーか、どうした今更」
と適当な話を捏造してサムを黙らせた。
「そっか・・そうだったね」
と、怪訝そうにしながらもテレビを見出したサムを置き、ディーンは久しぶりにバスルームに駆け込んだ。
シャワーを思いっ切り流しながらボビーにヘルプコールをかける。
『呪いの再発の事例は聞いたことがないな・』
うう、やはりか。
「どうしたら戻ると思う?」
『わからんが、基本的には前と同じ対応が安全じゃないのか。反動で死ぬ心配はあまりないと思うが』
さすがのボビーも困惑した声をしている。
前と同じ?
もう一度やれと言うのかあの「サムを満足させて呪いを解こう」キャンペーンを。
無理だ。むりむり。兄ちゃんの献身と忍耐力は完売御礼、再入荷未定だ。
がっくりしながらバスルームを出る。どうしたものかと壁のひびを睨んでいたら、サムが心配そうに寄って来た。ちなみに元気な弟はこういう場面で“兄ちゃん大丈夫?”なんて寄っては来ない。せいぜい部屋の端っこのテーブルから不審そうな視線を寄越すのが『心配』のサインだ。
「ディーン」
後ろから腕がそっと近づき、どう反応したものか悩んでるうちに抱き寄せられる。
だがこめかみから鼻へ、その下に移ろうとする唇はさすがに掌でブロックした。
「ディーン?」
「よせって。休暇はとっくに終わっただろうが」
呪いの反動が出ないなら、サムが自分の思い込みに疑いを持ったところで命の危険は無いはずだ。自然とぶっきらぼうな声が出る。
「うん、そうだったね」
適当な言い切りと刷り込みが通じてしまうのは呪いの最中と変わらない。
「でも、ごめん。何だか夢でも見てたみたいで」
ため息をつきながらサムがディーンの身体を抱きしめる。
(そうだろうともよ)
思いながら妙にいらいらして、腕を振りほどこうとする。だが、今度はサムが譲らず、抱きしめる手がかえって強くなった。弟とこんなに密着するのはえらく久しぶりだ。髪に顔を埋めてくるその体温自体は嫌でもないから始末が悪い。
「おい、」
「ごめん、ディーン」
「離せって。窒息する」
「馬鹿なこと聞くと思うだろうけど」
「おい、サム!」
「僕はディーンのそばにちゃんといた?」
「え」
「ディーンを一人にしなかった?」
ぎゅうぎゅうと抱きすくめてくる腕の中で顔を上げる。
サムは眉間にシワを寄せ、苦しそうな表情を浮かべている。
「何も忘れていないはずなのに、ずっと離れていたような気がするんだ」
「・・昨日は教会に二人で聞き込みに行ったし、一昨日は墓掘りして空振りだっただろうが。覚えてねーのか」
「うん・・・覚えてる。思い出した」
命の危険はないのならば、なんぼでも邪険にしてやっていいのに、不安を堪えた目で見詰められるとどうも弱い。それでも「ずっとそばにいた」とまで言ってやる気は起きなくて、ディーンは暑苦しく抱きついてくるサムの背中を黙って軽く叩くにとどめた。
無理はやめよう無理は。
なんだかしらんが、俺はこいつにムカついているぞ。
機嫌なんぞとってたまるか。
やっと腕が緩んだので、すかさず抜け出しながら
「思い出したんならさっさと寝るぞ。明日は移動だからな」
早口で言って背を向ける。すると、
「今夜だけ一緒に寝ようよディーン。絶対、誓って何もしないから」
(うわー、やっぱり来た)
振り返ると、戸惑いと不安を押し殺そうとして隠し切れない、サムの顔がある。
だけど、「彼」の意識はディーンがやっと忘れかけているあの頭の痛い日々、しかも最高潮のところで止まっているはずだ。
「・・あれはあの休暇中だけだからな。妙な真似したら蹴り出すぞ」
俺は押しに弱いのだろうか。
いや、違う。断じて違うはずだ。
心中で自問自答しながら、ほっとしたように近づいて来るサムを見てため息を噛み殺した。
翌朝。
サムはあっさり「弟」に戻っていた。
「・・なんで僕はディーンにしがみついてるんだろう」
「怖い夢でも見たんじゃねーのか?」
ディーンは心の底からほっとしててきとーな返事をする。ふわぁ、とあくびが出た。
妙なことをしてきたら、即座に蹴りだしてやる。そう、身構えるディーンを気にした様子も無く、サムは約束どおり一晩中静かに眠っていた。目を閉じた顔はサムだった。夫だろうと弟だろうと。
寝返りを打とうとすれば自然に腕を緩める。肩や首に触れてくるその感触が、忘れかけのいらんことを思い出させてまた腹が立った。寝ぼけてうっかり乗ってしまったらえらいことになる。気は抜けない。
ぐるぐるイライラ考えつつ、ディーンは結局一晩中起きていたのだ。諸々の緊張が一気に解けると眠気が込み上げて来たので目を閉じる。
「今日は休みだ。移動もやめ。俺はもっかい寝る」
よかった。
なんで昨日、あの状態になったのかも、なんで一晩で治ったのかもさっぱり分からないままだが、今はいい。
体温の高い弟がひっついているので寝床の中は暖かい。スキンシップは良いんだスキンシップは。
眠りに落ちる直前、やたらと太くなった腕が背中と腰を抱き寄せ、触れるだけのキスが額に落とされたのを感じる。
ここは突っ込みどころだ、と思いながらもう面倒臭くて、そのまま睡魔に身を委ねた。
穏やかな顔で眠ってしまった兄の顔を至近距離で見ながら、サムは固まった。
(なにやった。僕は今)
なにしやがるとか気持ち悪いとか。
何でもいいから反応してくれればいいのに、それもない。むしろ微かに笑って、身を寄せてくるようにして眠ってしまった。
昨日の狩りがよっぽど堪えたのかぐうぐう眠る兄を見つめる。自分も睡眠はとったはずなのだが実はちゃんと眠っていなかったのだろうか、平和な、妙に安心しきったその顔を見ているうちに、サムもまた眠気に襲われてきた。
回した腕はとかないと、と思いつつ、何だか離し難くてそのまま睡魔に身を委ねる。
腕の中の身体は温かくて、妙に馴染んだ。
昼近くになって目が覚めた兄弟は、絡み付く腕だの、胸に擦り寄るような体勢だのにいきなり直面し、互いに沈黙しながらたいそう気まずい思いをしたのであった。
ちなみにこの日を境にサムは「再発」を繰り返し、兄弟は揃って胃を痛めることになる。
おわり
7000様、お待たせした挙句こんな感じですみません・・・タイトルを「帰ってきた夫」とか「夫帰る」にしようかと思いましたが止めました。
呪が一回解けるけど、なにかあるたびに再発して夫が戻ってくる、というのはふーふの6の辺りから決めていて「そうすりゃ呪が解けてちょっとがっくりするディーンも書けるじゃーん♪わはははは」と思っていたのですが、10が何だか予想外に真面目になってしまって、「永遠に夫婦の予定だったが、ここで締めた方がええのかしら・・・」と思いかけていた夫婦呪いでした。リクエストいただけて、アップする踏ん切りがつきました。ありがとうございます!
サムがちょっかい・・・という辺りが今ひとつ弱かったかなあ、とか思いつつ、夫が出てきたら押しまくりになってしまいました(汗)そして前回夫に「満足して消えられた」兄貴が今回ちょっと拗ねております。いらんトッピングつきで失礼いたしました。
どうか少しでも楽しんでいただけますように!(緊張しております)