そのファイルを見つけたのは、狩の情報が途切れていたある日のことだった。
魂を取り戻して以来、サムは時間を見つけては自分の携帯やパソコンのデータを調べている。やめとけ、とディーンは怒るがサムとしてはそうも言っていられない。
酔っ払って一晩記憶がないだけでも怖いのに、一年以上の記憶がぽっかりと欠落しているのだ。しかもその間の自分について、周囲からは口を揃えて「冷血野郎」だの「得体の知れない」だのといわれている。
ディーンは、
「魂がなかったんだからお前のせいじゃない」
などと言うが、他人にそれが通じるわけもない。
サムの身体がサムの記憶を持って動いていたのだから。
地獄の檻からサムの魂を取り戻してくれた死の騎士に文句をつけるのは気が引けるが、地獄の記憶はともかく、この一年の記憶とはつなげておいて欲しかった。
そして過保護な心配をするディーン自身も、
「あのゲス野郎は」
とこの一年のサムのことを罵るのだから追いうちだった。はい、ゲス野郎です。
「お前のなかにはそういう部分もあって、だが通常は理性や良識があるから問題ないってことだろうな」
というボビーの解釈の方が受け入れやすい気はしたが、そのボビーも何となく目が覚めてからずっとサムに対して態度が固い。
気になってカスティエルから理由を聞き出してみたら、つい数日前に、魂を戻したくなくて呪文のためにボビーを殺しかけたというのでまたもや真っ青になった。
謝りに行ったら、苦虫を噛み潰したような顔で、
「覚えてない状態で謝られても仕方なかろう」
と苦々しく言われた。それはそうなのだが。
「まあ、魂無しになった原因は、お前が自分の身を犠牲にして終末を防いだからだしな」
落ち込んでいるとボビーはしょうがなさそうにそう言ってくれたが、そもそも終末を引き起こしたのも自分だったりする。
(まさにマッチポンプ)
頭の片隅でそう呟いてしまい、サムはまた頭をかきむしった。
地獄からこの世に戻ってきたディーンが、自分が悪魔に屈したことで第一の封印が破れたたと知ったあとひどく落ち込んでいたが、まさにその心境だ。
どこか遠くに逃げたいが、行った先に自分の被害者がいるとか普通にあり得る。
そんなわけで、今後の不安解消のためにも、ここ一年あまりの狩や事件の記録を必死に調べているのだった。
「それにしてもすごい量なんだけど」
サムが持ち歩いていたパソコンにはきちんとフォルダ分けされたデータがあるのだが、数がおかしい。1年分の量と思えない。狩ごとの記録の他に、テーマ別の調べものや分析をまとめたものもある。
「一晩中カタカタやってたからな」
一度も眠らなかったと聞いてはいたが、ちょっと尋常でない数だった。
だが猟奇的記録の山なんじゃないかとこわごわ調べたデータは、拍子抜けするほど普通だった。分かりやすく分類されているし、他人に見られたとしても支障の無い表現ばかりだ。
ただしサムやディーンのようなハンターが見れば裏の意味が読み取れる。
「嫌になるな」
見れば見るほど自分が書きそうなものだ。
そんな中、ハードディスクの随分と奥の階層に少し毛色の違うファイルがあった。
(なんだ?)
パスワードもサムが普段使うパターンと違う。
数秒考えて、仕事ではなく私的なファイルと判断し、兄にまつわる文字列を打ちこんでみる。するとさすが本人と言うべきか、数回であっさりとパスワードは合致する。
「………」
ますます記憶が無くても自分だという確信が増してしまって、微妙な心境でファイルを開いた。
だが、中身を見てサムはパチパチと瞬きをする。一体何かと思ったら、数枚のディーンの写真だった。どれも同じような寝顔のアップだ。なんでこんなものわざわざ。
しばらく怪訝な思いで写真を見ていたサムは、数分後にあることに思い至って顔をこわばらせた。
「ディーン!」
買い出しから戻ってきた兄に駆け寄ると、今日もやっぱり過保護な相手は見当違いの心配をしたらしく、緊張感をみなぎらせて振り返った。
「どうした」
「魂が無い僕となにかあった?」
数秒間が開く。
「何かって」
「い、一緒に寝たとか」
視線はがっちり合ったまま、ディーンの眉間にしわがよった。
ほんの数回だったが、サムはディーンとそういう関係になったことがある。
ディーンが悪魔との契約で地獄に落とされる前。
サムがルシファーもろとも自分を殺す決意をした後。
どちらも死と別れの間際で、怖くて仕方がなくて、常識も面子もどうでも良くなっていた時期だ。二人してアルコールをガブガブ飲んで、それでも気がまぎれなくて、お互い滅茶苦茶だと言いながらしがみつきあった。
だけど実のところ、昔から周囲にからかわれたりカップルと思われたりする程度には、サムは乱暴で下品で口が悪くて偉そうで、きれいで優しくて強い、実の兄が好きだった。
だからもうすぐ死ぬから、は格好の口実だった。
その自分が常識や他人の目など気にしない状態になっていたら、ディーンにただ関係を求めていても不思議はない。
そしてもしかしたら、ディーンはそれを拒まなかったかもしれない。
「なんでいきなりそんなこと聞くんだお前」
ディーンが顔をしかめながら荷物を置く。即否定されなかっただけで肯定されたような気になったサムは、背中にだらだらと嫌な汗をかき始めた。
「パソコンに兄貴の写真があって」
そう言うとディーンは買い物袋を放り出してテーブルの上のノートパソコンに突進する。
「どれだ!?何を撮りやがったあのクソ野郎!!」
「ちょっと、壊さないでよディーン」
「どれだ!?」
「それだよ!!!」
件の写真はウィンドウに開いたままになっていたのだが、完全に無視されている。
「へ…?」
ディーンはしばらくまじまじと写真を見た後、顔をしかめて振り返った。
「………あのな、どこをどう見りゃ、この写真からそういう発想に至るんだよ」
確かに写真は単なる寝顔のアップのみで、情事を想像させるようなものはない。だが、自分がわざわざ撮り、残したのだ。
「あんたとなにかあったから記録したはずだ」
サムが言うとディーンは黙り、考え込んでしまった。
「……何かってなあ。多分戻せるからってバンパイアにされたけどな。どちらかというと『兄貴のことはどうでもいい』とかぬかしたり、生き返っても1年連絡なかったり…」
「そういうのじゃなくて」
話しているうちに思いだしたのか、前にも聞いた話を繰り返し出すのを止める。
「ディーンって、わりとそういうのネチネチ繰り返すよね」
「そりゃあ、ヴァンパイアに嚙まれる瞬間、こっち見てニヤついてる面を見たらな」
「ごめんって」
「お前に言ってるんじゃない」
何度か繰り返したやりとりになりかける。
「だからさ、魂のない僕には常識のストッパーが無くて、やりたいことは無理にでもやったんだろ」
「それでか。なんだサミーちゃんヤキモチか?」
「そうだよ!」
否定すると思っていたのだろうディーンは「へえ」と目を丸くする。
そう、この一年動いていたのは自分なのだ。ディスプレイの写真にもう一度目をやりながらサムはまた思った。
この写真からは『どうでもいい』どころかディーンへ向けている強い執着がわかる。ディーンが少し表情をやわらげた。
「はっきり言っとくが、あいつとは寝てない」
「そ、そう」
「あいつは俺とヤリたがったけどな」
やはりか!
と歯軋りしつつ、サムはふと今自分が重大事態を口にしたことに気がついた。こわごわと兄に目を向けると、向こうも気づいているらしく、ガリガリと頭を掻いている。
「ディーン、あの」
「で、今のお前の話だけどな」
「う…」
「忘れた方がいいのか?」
言われて顔が盛大に赤くなるのがわかる。だが、ここで撤回したら二度と口にできなくなりそうだった。
「忘れなくていい」
「そっか」
ディーンは頷き、サムはモーテルの裏庭に突進して穴を掘りたくなった。
組み敷いていた背中は汗ばみ、肩甲骨の辺りにうっすら歯形が残っている。
だるそうに動く腕が、ベッドの足元でぐしゃぐしゃになっていた下着を拾い、ノロノロと着込むのをサムは黙って見ていたが、相手がそのままベッドから降りようとするのでとっさに腕をつかむ。
背中に腕を回して引き寄せ、シャツの胸に顔を押し付けてくん、と匂いを嗅いだ。着たばかりの下着の中にもう一度手を滑り込ませる。
「おい」
諫めるように頭を叩かれるが手は止めない。たくし上げて腹のラインを辿ると、ひくりと筋肉が反応した。
「わあああああああ!」
叫んで跳ね起きると、横のベッドでディーンも飛び上がる。
「どうした!?」
真剣な顔で案じられても言えるわけがない。今、夢であんたの背中を噛みましたなんて。
塩辛い汗の味まで舌に残っている気がする。
「な……なんでもない」
引きつった声で返すのがやっとだった。
どういう頭の仕組みが不思議だが、写真を見つけて以来、恐ろしいことにふとしたきっかけでディーンとのセックスの記憶が浮かぶようになってしまった。
ほんの短い期間だったし、必死だったことしか覚えていなかったが、モーテルのテーブルも、バスルームも、ソファの上も、普段目に入るような場所はどこもかしこもディーンの身体の記憶がある。床や外もだ。やってることも結構ひどい。
赤くなったり青くなったり、すっかり不審人物だが、ディーンはしばらく文句もからかいもなしにサムを放っておいてくれた。
狩を終えた森の中で、魔物の身体を埋めた、手の泥も乾かない状態でキスを交わす。
「そのドロドロの手で触んなよ」
立ち木に凭れかかったディーンが笑うので、サムは顔を下に下げるとシャツに噛みつき、口でデニムから引きずり出した。
「犬かお前!」
シャツの下に顔を突っ込んで舌を使いだすとゲラゲラ笑う声が途切れがちになる。
笑い声が怒り声に、そして次第に息が乱れて最後にはもうなんでもいいから手を使って先に進めとせかされるのは楽しい。
好きな部分を吸い上げると頭の上でくう、と泣くような音がする。
足りねえよこの馬鹿。入れろ。早く。
そう言いながら髪をぐいぐいひっぱられた時は最高だった。
「わわわあわああわ!!!」
墓を掘っていたスコップを思わず放り出して飛び退いてしまう。
「サム!?」
「何だよ!?」
一緒に穴掘りしていたボビーとディーンが、スコップと土をいきなり投げつけられて怒号を上げた。
「ごめん」
謝りながらサムは唐突に興奮しきった脈拍を抑えるのに苦労する。土を掘っている間に過去の映像に浸りきっていた頭を振って放りだしたスコップをもう一度手に取った。
その夜、ディーンの忍耐が切れたらしく、夕飯をつつきながら訊かれる。
「お前、この間っから色々思いだしてるみたいだけど、ヤりたいのか?」
「そんなんじゃない!」
咄嗟に言い切ってしまったのは、弟病とでも言えばいいのだろうか。
「ふーん」
ディーンはそれしか言わず、サムはまたズブズブと自己嫌悪の沼に沈みこんだ。
そんなんじゃなかったらなんなんだ。
自分で突っ込む。やりたいとも。だけどいきなりあそこまではハードルが高すぎる。
サムはディスプレイに諸悪の根源たる写真を開いて眺めてみる。
自分は何を思ってこの写真を撮ったのだろう。
「また見てんのか」
後ろからディーンの声がしてぎょっとするが、隠す必要もないので、
「うん」
と答えてそのまま写真を見続けた。
「なんで僕はこの日に兄貴の写真を撮ったのかと思って」
「覚えがねえな。狩もしてないし」
「ふうん」
「で、お前はこの写真のどのへんがヤッたっぽいと思うんだ」
確かにただの寝顔だ。サムは苦笑してディスプレイを指差した。
「この、角度とか距離の感じがね」
密集した茶と金の混じったまつげを数えるような角度とか、微かに開いた唇への焦点のあわせかたなどがもろに自分の好みで、とはなかなか言いづらい。少し上から見下ろす角度は、端正な顔立ちが特に彫刻めいて見えるのだとも。
横で酒のグラスを片手にのぞきこんでいたディーンは、写真を見つめて動かないサムにやがて飽きたようで、
「そんなに俺の顔が見たきゃ、本物が横にいるぞ」
とグラスで頭を突いて絡んできた。顔が結露で濡れるので、手で避ける。
「ちがうよ、この日の僕が写真を撮ったわけを考えてた」
するとグラスが顔の前からどき、代わりに指で額を弾かれた。
「何すんだよ!」
「あーほ」
ディーンはそう言うと、サムから離れてソファに陣取りテレビをつける。
何がアホだ。自分こそパソコンの上で結露付きのグラスをくっつけるな。しばらく脳内で文句をつけつつ写真を見ていて、ハッと気づいた。
もしかして今僕はやんわり誘われて、断ったんだろうか。
思わず背後を振り向くが、ディーンはソファで連続ドラマの続きに見入っていた。
物事はそう上手くはいかないものだ。
買ってきたビールをフリッジに放り込んだディーンは、今日もパソコンの前から動かないサムの方を見やった。
ディーンはずっとこのでかい弟が好きだったし、それは綺麗なおねーちゃん達が好きなのと何の齟齬もなく並行してあり続けていた。成就するかはまた全くの別問題だ。いかに世間の常識など気にしないディーンでも、兄弟でどうこうというのが「普通」と「常識」を大事にする弟にとってゴキブリ並の最低枠に入るだろうことはわかる。
なので、悪魔との契約が迫る中で、半ばパニックを起こしたサムが自分に手を伸ばしてきたのは思いもよらぬラッキーだった。永久に続くという地獄でも忘れないように時間がある限り思いきり抱きしめた。冥土の土産と言うとまたサムが泣きそうで止めたが。
しかしまあ、奇跡が起こって地獄から返ってきたら弟には既に女はいるわ、終末は始まるわ、今度は弟が地獄に落ちるわで全くもってそんな話の入る余地はなかったし、二度目の奇跡で弟が戻ってきたと思ったらむかつき度マックスの鉄面皮ロボットになっていた。サムに言われて思い返してみたら、そういえば時々妙にねちっこいスキンシップがあったが、こちらの方が相手をゴキブリ的に認識していたので、これまたどーのこーのとなる要素はなかった。
しかし神は(キャスの親父ではない)我を見捨てなかった。奇跡は三度起こり、弟の魂はその身体に戻ってきた。さらに弟も自分のことがどうも好きだという。めでたい。
だが、ディーンは忘れていた。魂のある通常モードの弟がうだうだと考え込む優柔不断野郎であったことを。ライブで動いて触れる本人が横にいるというのに、来る日も来る日もディスプレイを睨んでいる。
「そんなに寝顔が好きならナマで見りゃいいだろ」
と言ったら、
「そんなもん毎日見てる」
と振り向きもせず返ってきた。そのくせ頻繁に口に出すにははばかりのあるフラッシュバックが起こるらしく、唐突に横ではあはあと興奮したりする。アホとしか思えない。セックスなんて見るもんじゃなくてやるもんだ。例え自分のことであっても。
だが、いっそ寝込みを襲ってやるかと思って一度実行したら、単なる夜襲訓練の格闘になってしまった。女にはいつでもどこでも色目を使っていた魂無し野郎と違って、魂のあるまともな弟をその気にさせるのは難しい。それでも、弟が生きて帰ってきて、魂がある。それだけでも幸運だと思う。満足できないわけでもないのでディーンはトータルとしては今の日々に満足だった。
だが毎日隣で赤くなったり青くなったりじたばたしているサムを見ると、ついついちょっかいを出したくなるのだ。
「忘れなくていい」
とは言ったものの、その後大した進展はなく日は過ぎていた。この一年の行状を気に病むサムの半ば気晴らしを目的にしたように狩の生活が続いている。
そんな中、調査の途中で二人連れのハンターに出くわした。壮年の男と、若い女だ。
「サムか」
目つきの鋭い男がそう言うのを聞き、サムは脳内で慌ただしく検索する。顔には見覚えがあった。フラッシュバックの中で自分と狩をしていた男だった。
サミュエル・キャンベル。母メアリーの父親、つまり祖父だ。
1973年に死んだ人物が40年も経ってから復活して、サムを巻き込んでクラウリーの手下になっていた。
自分とは異なり魂は有るが、生前との人格と同じかはかなり疑わしい。古くからのハンターだというのに、最後にはサムとディーンをクラウリーに引き渡して殺すところだった。顔を見た途端に銃を向けた兄を咄嗟に止めたが、撃たせてもよかったのかもしれない。
「元気そうだ」
「世間話はいい」
口をきくと付け込まれそうで、最低限の会話にとどめるが、ディーンとのごく短いやり取りを見ていただけで、サムの変化は気付かれてしまった。腐ってもハンターということだろう。
「感じが違うな」
「魂が戻った」
そう返すとほう、とサミュエルは品定めをするような目つきになる。
「なるほどな。もともとのお前たちの関係はそういう風だったわけだ」
どういう意味だ、と思って見返すが老獪なハンターの表情は読みづらい。
「サム、こいつの言うことなんかほっとけ」
ディーンが苛立たしくもう一度銃を向けるのをボビーが制止する。初めて会うとはいえ孫をグールのエサにしようとする男だが、フラッシュバックで思い出す光景の中では、この男から「よせサム」だの「お前が恐ろしい」だのと諌められているので、魂の無い状態の自分は、この男が思わず止めるほど問題のある奴だったということだ。
ああ、頭が痛い。
サムは心中で呟く。
その後の狩の中で、魔物に操られたディーンは従妹だという女性ハンターを撃ち、サムは魔物に乗っ取られた祖父を撃った。
人間をこの手で殺したというのに、しかも祖父だというのに、偏屈なルーファスが逝ってしまったことへの十分の一も心が痛まない自分は、やはりまだ何かが欠けているのかもしれない。
ルーファスの墓に留まるボビーを残し、車に向かいながら隣を歩くディーンを見やった。こういう時のディーンは静かだ。伏せたまつ毛が顔に影を作っている。
不意にフラッシュバックに襲われる。
うつむくディーンに近づき、腕を回す。険しい顔で振り払われるが、構わず引き寄せる。二、三回の攻防の後、ディーンは根負けしたようにサムの肩に額を預けた。最初から素直にそうすればいいのに、と思う。腕の中の呼吸が大きくなり、細かく震え、やがてゆっくりとしたものになっていくのをひどく満足して感じていた。
これは自分の記憶じゃない。魂を無くしていた頃の欠片だ。
いつのことだろう。何があったのだろう。急に腹の中が熱くなった。
我に返ると墓地の外に停めたインパラがちょうど見えてきたところだった。隣を見るとディーンは先ほど同様黙りこくって歩いている。横を歩く自分は、兄が落ち込んでいるのは分かっても何もできずにいる。
感情の無い自分の方が、却ってディーンを慰められたんだろうか。強情を張るなと凭れさせることができたんだろうか。
モーテルに戻ってきてから、しばらくは二人とも無言だった。荷物を降ろし、顔と手を洗い、使った武器の手入れと補充をする。何年も同じような日々を送っていると、一連の作業は文字通り習慣化して何一つ言う必要がない。ひと段落ついたところて立ち上がり、サムはディーンを振り返った。
「夕飯どうする?」
「ああ」
生返事をするディーンはさっきからずっと拳銃の手入れを繰り返している。それがグウェンを撃った銃だと気づいたサムは二人分の上着を取り上げた。放っておけば一晩中でも続けそうだったからだ。
「外に食べに行こうよ」
「ああ?」
とっくに整備の終わった銃をまだ磨きながらディーンが見上げてくるのに、上着を押し付ける。
「なんか冷めたもの食べる気分じゃないしさ」
「どこのお坊ちゃまだお前。ウィンチェスターの男じゃねえな」
呆れたような口をきくが、サムが譲らないのを見ると仕方なさそうな顔で立ち上がった。
ああ、やっぱり、とサムは思う。昼間死んだグウェンという女性のことが響いているのだ。サムは彼女についての記憶がないので正直見知らぬ他人への哀悼しか感じていないが、ディーンは彼女を知っていた。そして魔物のせいとはいえ、自分の手で撃った。しかも母方の係累だ。自分を責めて落ち込んでいるとき、ディーンは埋め合わせるようにサムの我がままに甘くなる。
幸いというか、その日の宿の近くには徒歩で行ける距離に複数のダイナーがあった。チェーン店ではなさそうな一件に入る。
「何にすっかな」
ディーンは食欲がなさそうな顔でメニューをめくる。気分がどうであれ、食べられるときには詰め込むのは長年のハンター生活の習性だ。
「食欲ないならチキン・マカロニ・スープにしなよ。消化にいい」
「んな婆ちゃんみたいなチョイスはお前が食え。ポークカツレツにする」
冗談半分、本気半分の勧めはもちろんスルーされて、例によって脂分たっぷりのチップスと濃厚なソースのかかった皿が運ばれてくる。しばらくは二人とも黙々と口を動かした。
「良く知ってたの?彼女」
皿があらかた片付いた頃、サムはそっと訊いてみる。話した方が消化しやすい場合もあるからだ。
水を飲んでいたディーンは少し眉を上げる。
「あの爺のアジトで二三回会ったな。お前は一年くらい一緒に狩をしてたはずだ」
「そう…」
そう言われてもやっぱり思いだせない。断片的な光景に出てくるのはサミュエルばかりで、さっきの彼女と狩をしているような記憶は欠片も見つからなかった。首をひねっているとディーンが顔をしかめて「止せ」という。
「また倒れたら困るだろうが」
「ああ、うん、まあね」
アラクネの事件の後、廃屋で倒れたのは記憶にも新しい。サムとしても何度も味わいたい感覚ではなかった。なにせ地上の一年は地獄の一〇〇年、二、三分が一週間だ。
「まあ、どうもサミュエルはグエンにはあまり重要なことを教えていなかったらしいからな。一度狩をした時、いつも除け者にされると愚痴ってた」
「ふうん」
「アジトで留守番が多かったのかもしれないな」
「でも、最後はサミュエルの相棒になったわけだ」
「他の連中が全滅したからだろ」
「…ああ、なるほどね」
ちょうど通路をウェイトレスが通ったので、血なまぐさい展開になりかけた話題を止める。
「すごく今さらなんだけどさ」
「ん?」
ついでに頼んだコーヒーを啜りながらサムは尋ねた。
「サミュエルって、本当に僕らの祖父だったと思う?」
おぼろげな記憶の中で組んでいる光景は見たが、結局のところ出会った最初から騙されていた相手だ。尋ねるとディーンが妙に愉快そうに笑った。
「そう思うだろ?」
「?、うん」
そもそも自分達が生まれる前に死んでいた人間なのだ。それがいきなり生き返って、しかも母親の係累が何人もいて、皆ハンターだったなんて、無茶で唐突な話が多すぎる。そもそも黄色い目の悪魔の話を信じれば、いかに力の強い悪魔といえども契約無しでは死んだ人間を生き返らせることはできないはずだ。
「だよな。どう見ても怪しさ満載だよあ」
しきりとディーンが頷く。コーヒーに添えられていたスプーンでサムを指し、身を乗り出してきた。
「俺も言ったんだ。どう見ても怪しい。お前騙されてるって」
「誰に?」
「ロボサムにさ」
魂の欠けた自分をそんな名前で呼ぶことにしたらしい。
「そしたらあの野郎、なんて言ったと思う?『でも家族だから大丈夫だ』『だって祖父だ』の一点張りだぜ。全然勘働きってもんがないんだ。話にならねえよ」
「へえ…」
記憶のない自分はとことん冷徹で合理的な印象だったので意外だ。少し考えて、
「そのロボット、家族=味方、っていう初期設定になってたのかも」
というと、まさにそんな感じだ、とディーンは頷く。
「サミュエルはキャスに過去に飛ばされた時に会った男と顔は同じだが、一〇〇%本人かは怪しいな。顔を似せる方法なんかいくらでもある」
「いっそそう思いたいよね。本物じゃなくて他人だって」
「まあな…」
サムの声にディーンが顔を上げる。改めて今日彼が死んだことに思い至ったのかもしれない。三人の知人の死を目の当たりにしたのに、数時間後にはこうしてダイナーでコーヒーを啜っている自分達は、旅を始めた頃から、随分と遠くまで来てしまったと思う。
気晴らしになったのか微妙な食事を終えると、帰りの道沿いにあるリカーショップに入った。
墓地の時よりはましな心境だったが、まだすっきりしたとは言い難い。ディーンが常々言っている、
「色々やってられないことは酒と暴力で飲みこめ」
を実践するしかない気がして、安酒のボトルを二三本カウンターに置くと、控えめに一本だけ買おうとしていたディーンが目を丸くした。
部屋に帰るとボトルとグラスをテーブルに置き、黙々と流し込む。
しっかり食事をしたのが裏目にでたというのか、酔いを感じないままにあっという間にボトルの三分の一ほどが空いてしまった。
(これは洒落じゃなく全部飲んで二日酔いのコースかもしれないな)
サムがそう思い始めた頃、向かいで黙々と杯を重ねていたディーンが口を開いた。
「おい」
「何?」
ぼんやりと返す。一日狩りをして、食事も終えたせいか、酔いつぶれるというよりは単純に眠くなってきている。
「めんどくせえことは、酒で飲みこめって言ったよな」
覚えてるか、と訊かれて頷く。だから今実践中だ。
「もう一つ良い手がある」
そういってちょいちょいとベッドを指さされた。
「………」
サムは指されたベッドを見て、少しとろんとした目で向かいに座るディーンを見て、もう一度ベッドの方を見やった。
ああ、なるほど。
「………僕はディーンが好きだって言ったっけ」
「おお、まあ前にな」
ぼんやりと呟くと頬づえをついたディーンが口の端を上げる。
「好きな相手にこういう状況でしかも酔ってって、言い訳じみててやだな」
サムがそう言うと、ディーンはがくりとテーブルに突っ伏した。しばらく動かない旋毛を見ていたら、やがてむっくりと起きあがる。
「お前、忘れなくていいとか言いつつ何にもないと行動しないくせに、何か理由があるのもやなのかよ」
どーしよーもねえな。そう言いつつ、ディーンはもう一度テーブルに突っ伏してしまう。
サムはしばらく突っ伏した兄の頭を見つめていたが、ふと思いついて目の下に見える旋毛に唇を落とした。
「…なにすんだコラ」
突っ伏したままの頭が文句を言うのに笑う。
「ちょうどいい位置にあるからつい」
帰ってからまだシャワーを使っていないので、汗と硝煙の匂いが強い。お世辞にもいい匂いとは言い難いのに、それらとまじりあった兄の香りから離れがたくてクン、といつかのように息を吸い込んだ。うわあ、と顔の下の頭が動揺した声を出す。
「止せって」
頭を上げた相手と、至近距離で目が合う。何となくお互いに身動きを止めた。
ここで何か一言でも茶化されたら、サムは臆病なカタツムリのようにさっさと撤退するのは間違いないのだが、さすが百戦錬磨の兄はいつもの軽口を封印してサムを見返している。
写真にある通りの金と茶が混じったまつ毛。今は開いている碧の大きな目。突っ伏していた上にサムの頭が乗ったので、鼻の先が少し赤くなっている。
顔をもう一度近づけて、その赤に触れる。
そして唇をもう少し下にずらせば、あとはごく自然な流れだった。
テーブル越しのキスは二三回繰り返すとすぐにもどかしくなり、サムはディーンの腕を取るとゆっくり立ち上がるように引いた。
狭いモーテルは二三歩歩けばもうベッドだ。座らせてもう一度キスをする。頭を抱えるようにキスを繰り返しながら、まだ着たままだった上着を脱がせて床に放った。ディーンがお前も、というように手を伸ばしてくるのを振り払い、片方ずつ袖を抜いたジャケットをその辺に投げる。上を脱いだ状態でのしかかり、耳たぶに歯を立ててから靴を履いたままだったのに気付いた。
何とかキスを中断せず、足だけで脱ぎ捨てられないかと四苦八苦していたら、同じく気付いたらしいディーンが、
「靴くらい脱がせろよ」
と笑いながら起き上がる。ムッとしてサムも身体を起こし、靴を脱いで改めて向き直る。振り向いて見た顔が、思ったよりムカつく顔ではなかったので、もう一度キスをすると、ディーンが笑って腕を回してくる。途端に湧き上がる幸福感に、ああ、僕はお手軽だとサムは心中呟いた。ディーンの表情、ディーンの受容で一喜一憂している。
「めんどくせえ奴」
素面なら傷つきそうなセリフも、アルコールで神経が程よく麻痺していると、単に甘いからかいに聞こえる。こちらを見上げる顔が酷くきれいに笑っているからなおさらだ。
「どうせね」
「サミーちゃんだもんな」
しつこくキスを繰り返しながら、憎まれ口を叩き合う。首筋や背中を撫でてくれる少しかさついた指の感触が、泣きたくなるほど懐かしかった。
目を開けると目の前にディーンの顔があった。
(何だか感動的だ)
サムは寝起きの頭で思いながら平和そうに眠る顔をぼんやりと見つめる。
もうすぐ別れが待っているわけでもなく、絶望的な狩りを控えているわけでもないのにこんな距離にいる。
すうすうと寝息と共に微かに動く唇や胸の動きは意外に飽きなくて、見ているとやがて瞼が震え、目を開けたディーンがくわあ、と欠伸をした。
「おはよう」
「おう」
応えるとまだ眠いのか、もう一度目を閉じてしまう。多分今日は平穏な日だ。二人とも生きていて、静かな朝で、狩の予定もない。
不意にフラッシュバックが脳裡に閃く。
「…ああ、そうか」
サムは小さい声で呟いた。
あの写真の日付。その意味が分かった。
何もなく穏やかに過ごした日だったのだ。ディーンが一度も怒らず、時々冗談まで言って笑った日。一日がそんな風に過ぎて、眠った後のディーンを撮った。
兄の機嫌が良かろうと悪かろうと、サムにとって実害はないけれど、この日の出来事と行動の何が理由で、そんな風に過ぎたのか、後で確認するためにも記録しておくのは無駄ではないと思った。
「…どうした?」
動揺が触れた肌から伝わったのだろうか、目を開けたディーンが少し掠れた声で訊く。
魂の無いときの自分も、彼なりにディーンにどうしたら褒められるのか、怒られないのか気にしてたんだよ。
先ほどの発見をそのまま言いかけて止める。
ディーンがあの頃の自分のために悲しみそうな気がしたからだ。それは何とも面白くなかった。
なるほど、そう思うと確かにあの頃の自分は、今の自分とは別人かもしれない。
ディーンは穏やかな顔でサムの返事を待っていたが、サムは答えを封印する。
そして代わりに「おはよう」とキスをして、ディーンにクサいとげらげら笑われた。
終わる
振り返るとやっぱりロボサム好きな自分よ…
[13回]