1
ディーン・ウィンチェスターは自分のことを重度のブラコンだと自覚していたが、最近は弟の方もかなりヤバいのではないかと思うようになった。
「寒くない?ディーン」
今も前を歩くサムが振り返りながら尋ねてきて、ディーンはため息をつく。同じことを訊かれるのはこの数分で何回目だ。
「平気だ」
短く答えると、サムがニコリと笑う。
「もうちょっとだからね」
「……ああ」
お前は馬鹿かと言いそうになるのを、ぐっと堪えた。今歩いているのは雪原でも寒風吹きすさぶ荒野でもなく、ショッピングモールの駐車場だ。確かに空は曇り、冬の風は冷たいが、屋根の下までほんの数十メートルだ。
周囲には買い物の家族連れがのんびりと歩いている。そんな中ディーンは、エスキモーさながらの分厚い上着を着せられ、ムートンの手袋と長靴の重装備だ。
だがまあ仕方がない。もう何年も前から、ディーンの身体は体温を保持するのが難しい。
なにせゾンビになっていたからだ。
数年前のことだ。
細かい経緯は省くが、ディーンは悪魔との契約で地獄に落ちる寸前になっていた。そのディーンをなんとか助けたいと寝不足になりながら考え続けていたサムは、どこがどうなってか、
「そうだ、兄を不死の身体にすればいい」
という結論に達した。頭の良い奴が睡眠不足で思い詰めると、ろくなことにならないという実例だ。
そして自分たちが狩ったイカれた外科医の知識を使って、実の兄の身体を改造してしまったのだ。ディーン本人の同意どころか、相談もなかった。弁護士志望だった奴がそれでいいのか。不意打ちで注射を打って眠らせて、勝手に改造したのだから、動機を除けば完全に行動が悪の結社だ。ディーンは人生のほとんどを魔物と戦ってきたのに、目が覚めたらゾンビになっていたのだ。まったくなんてこったろう。
(しまった)
考え込んでいるところに風が吹き付け、目にゴミが入った。ポケットを探るが携帯しているはずの目薬はない。車に置いてきてしまったのだろう。
「どうしたのディーン」
声を出したわけではないが、ディーンの動きで気づいたらしいサムが振り返る。
「なんでもねえよ。目に埃が入っただけだ」
気にするな、と手を振るが、サムは足を止めて覗き込んできた。
「目薬は?」
「忘れた」
そう答えると、みるみる表情が硬くなる。
「大丈夫だって」
軽く言ってみるが、サムの表情は緩まない。
「こすっちゃだめだよ」
「分かってる」
今サムは弟であると同時に、この身体の管理者でもある。ディーンの身体が傷むと、傷んだところを交換する必要がある。それを繰り返していくことで不死の身体を保つのだが、交換するためにはパーツが必要だ。そうなるとサムはパーツのために人型の魔物を狩りに行く。人間を傷つけないのは当然だが、ディーンはなるべく弟にそんな意味のない狩をさせたくなかった。
「ちょっと上向いて」
サムがフードを被ったままのディーンの顎を少し持ち上げる。
「目を開けられる?」
そう言われてそうっと目を開くと、濡れた感触が目玉に触れて、思わず
「うわ」
と小さな声を立ててしまう。
「取れた?」
「いや、まだ…」
嘘を言ってもばれるので正直に答えると、サムが真剣な顔をもう一度近づけてくる。
全体的に感覚が鈍いのに、サムの舌が目の表面をなぞっていく感覚はやたらとはっきり感じて、ディーンは思わず肩をすくめる。
「ディーン、動かないで」
咎めるように身体を捕まえるサムに、
「もう取れた」
と言うと、腕の力を緩めたが、ついでのように鼻の頭にキスをされてから顔が離れる。
「よかった」
そう言ってサムは笑っているが、ディーンとしては周囲を通り過ぎていく家族連れの視線が痛い。モール内のレストルームで目を洗えば済むのに、何故か駐車場の真ん中で連れの目玉を舐める男二人。痛い。痛すぎる。だがそう言ったところで、
「水場を探してる時間が惜しい」
と言われてしまうのはわかっていた。ディーンの賢い弟は、改造以降世間体とか良識とかもどこかに放り捨ててしまったようだ。探して拾いに行きたい。
今日の買い物は本当にただの日用品だ。サムがカートを押し、マーケットの中をぶらぶらと歩く。オーガニックの野菜の棚があったので、
「お前の好きそうなのがあるぞ」
と指さすが、サムは立ち止まらない。
「野菜はまだストックがあるからいいよ。バスオイルとか買おう」
そう言ってカートの向きを変える。
ディーンが酒も食べ物もいらない身体になって以来、サムはあれだけうるさかったヤギのエサに構わなくなってしまった。家庭菜園でかなり賄っているということもあるのだが、こういうときにはつまらない。かわりにやたらとディーンのもの、特に風呂関係のグッズを買い込むようになった。
もともとディーンも風呂好きで、バスボムやオイルは買っていたが、最近のサムはやたらと値段の張るオイルやボディクリームやらも黙々とカートに入れ、その大半はディーンに使うのでなんともきまりが悪い。バレンタインにチョコレート色の風呂にいれられた時は率直に逃げたくなった。
「やっぱりどう考えても、俺は家にいたほうが面倒がねえぞ」
交代してカートを押しながらディーンがぼやくと、サムは困ったような顔で振り返る。
「駄目だよ。最近周囲に妙な気配が多いから危ない」
「ハンターだろ」
「だからさ」
ゾンビが街中をうろうろしていると聞けば、ディーンだって調べてみようと思うだろうし、見張るのも当然だ。元ハンターとしては、ゾンビが街中をうろついてたら、いきなり狩られても不思議はねえよな、という心境のここ数年なのだが、そうはさせるまいと、サムはずっとピリピリしている。
「今もその辺にいるみたいだから、僕から離れちゃだめだよ、ディーン」
「俺は幼児か」
「いや、どちらかというと高齢者」
「だまれ」
言いあいながら、日用品をカートに放り込む。ディーンが通りすがりにポルノ雑誌を取って入れると、サムは軽く目を見開き、
「そんな元気があるの?」
と顔をしかめた後に笑った。
「うっせ」
実のところもう大して関心はないのだが、ディーンがそうした雑誌に手を出すと、サムがいつも安心したように笑うのがよかった。悪の結社のくせにピリピリ警戒している弟を見ていると、兄としては、
「大丈夫だ」
と宥めてやりたくなるのだ。だが雑誌で喜ぶならDVⅮも、とカートに入れかけると、
「それは買いすぎ」
と棚に戻された。
「なんだよ」
「どうせ一回しか見ないだろ。見たいなら配信使って」
「………おう」
ディーンは弟の性格を知っていた。絶対に一緒に観ようとはしないだろうが、絶対にあとで本当に番組を再生したかをチェックする。この際徹底して興味のない動画を再生するか、雑誌をカートに入れるまでで打ち止めにするかは、生きていない身にはちょっと面倒な課題だった。
2
「サムが気持ち悪い」
遠慮のないコメントをしたジョーに、
「そうだな」
ディーンはげんなりと同意した。狩から身を引いて以来、サムはその優秀な頭脳と貴重な人生の時間を変な方向に無駄遣いしている。
「アンチエイジング、ダメージケア、肌再生………ヒト幹細胞培養上清液……なるほど、ここまでやるのか…」
ジョーがテーブルに並べているのは、サムがディーンに使っているメンテナンス用品だ。
「何がなんだかわかんねえな」
「見ればわかるでしょ、基礎化粧品よ。高級スキンケア用品。中高年女性の憧れ」
ジョーがすっぱりと言いなおして、ぐるりとパッケージを向ける。どれもこれもきらびやかな容器だ。
ディーンはするはずのない眩暈を感じて目を閉じる。
最近ほんとうに「ゾンビの割に血色がいい」ので、何を使っているか入手経路含めて調べてくるようにとエレンから調査命令がでたのだという。
「高い…これも高いやつだ。無茶苦茶高い……」
画像検索しながら呻くジョーに、データ入力をしているサムが、
「そこのはもう使わないから、サンプルに持って行ってもいいよ」
と言ったので、ジョーの顔がさらにすごいことになる。
「なにそれ」
「え、エレンが訊いてこいって言ったんだろ?サンプルがあった方がよくないか」
「そうじゃなくて、これは今使っていないんなら、今使ってるのはなに?」
「それはこっち。まだ効果は検証中なものもあるけど」
サムがまた新たな瓶を並べる。なにやら説明しているが、聞いているディーンにはちんぷんかんぷんだ。そして気が付かないうちにこれだけのものを全身に塗りたくられているという事実に、今更ながら遠い目になる。
「あと、これはしばらく前に作った人工皮膚」
サムがシャーレからピンセットで薄い皮膜を持ち上げて見せる。
「火傷の治療で使われているのを参考に作ったんだ。日用品にしては高いけど、弾や聖水よりは安いよ」
「どう使うの」
「ディーンの縫い目に使ってるよ。最近目立たないだろ」
「いつの間にそんなもん…」
本当に、サム・ウィンチェスターは優秀な男なのだ。なんて頭脳の無駄遣いなんだろう。
そして、それらの全てについて記録したデータを説明し始めたところで、ディーンは耐えられなくなってソファに突っ伏した。サムが青くなって立ち上がる。
「ディーン!?どうしたの?」
「………どーしたもこーしたもお前……」
「そりゃ倒れるわよね」
サムが凝り性なのは昔からだ。データをまとめてグラフ化するとか、動画にするとかも珍しくない。
ただ、それが高級化粧品を兄ゾンビのお肌に使ったときの効果の比較であることの破壊力が強い。
「……そういえば、最近ディーンの着るものが前と感じ違うわよね」
ジョーが気が付いたように低い声で言うのに、ディーンはちらりとサムを見る。
「皮膚への負荷が少ない素材にはしてるよ」
「色とかも選んでるでしょ」
「そりゃ、似合う色の方がいいだろ」
「………」
「………」
「なんか、昔遊んでた人形思い出しちゃった」
「……やめてくれ」
「着せ替えって楽しいわよね」
「聞きたくねえ」
ディーンも薄々思わないでもなかったが、他人から言われるとダメージがでかいのだ。
3
サムの目的ははっきりしている。
ディーンを悪魔の手に渡さないことだ。そしてそれは達成した。
次は、ディーンをハンターに傷つけさせないことだ。
これには未だに苦労している。
直接狩られることは無いにしても、ハンター達はなにかと、
「ゾンビだらけになった街の中を偵察してほしい」
だの、
「一週間飲まず食わずで待機して狙撃してほしい」
だのとディーンを便利に使おうとする。そしてまたディーンは狩に関わることならどんどん受けてしまおうとするので、サムはなるべく、
「音の少ないドローンを貸す」
「遠隔で操作できる狙撃装置がある」
等の代替手段を提供してきた。ディーンは不満そうだが、銃の反動は結構身体にダメージが来るのだ。
「お前の弟、やっぱおかしくねえか」
しゃがんで草をむしりながら、ディーンを狩りに来たバカが言うのに、
「俺に訊くな」
とディーンが律儀に応えている。
ディーンは自分が人間でなくなってしまって以来、変な意味で他人に寛容になった。いま足元で草の根っこを掘っている奴は、つい最近、ディーンを狩ろうとしたハンターだというのにだ。間一髪でサムがバカを止めたから良かったものの、
「ある人を助けるために、人間の心臓がいるんだ。お前はもう死んでるんだから心臓をよこせ」
などと抜かした相手に、こともあろうにディーンは首を差し出すところだったのだ。
「俺の心臓、もとはヴァンパイアのだがいいのか?」
「「良くない!」」
叫び声はバカとサムの合唱だった。意味は違ったが。
たまたまそいつが絡まれていた悪魔はサムが用事のついでに殺していたので、もうディーンを狙うことはない。
「助かった、礼を言う」
いけしゃあしゃあと言うハンターを腹いせにその辺の穴に埋めてやろうかと思ったのだが、
「やめとけ」
と穴の中の馬鹿に土を被せようとするサムを止めたのもディーンだ。
「手足は縛ってないんだから、自分で土どかして出てくるよディーン」
「よく見ろ。お前がさっき殴ったからふらふらしてんだろうが。それに穴が深いぞ」
「えー?墓としては普通だろ。それに他人の身体を切って、心臓持って帰る気概がある奴なら大丈夫だよ」
「人じゃねえよゾンビだから。おい、やめろっての!」
話している間に手を動かして一通り埋めてしまいたかったのだが、ディーンが怒ったのでやめにした。
そして今も、そんな奴を家庭菜園の草むしり程度で勘弁してやりつつ、ディーンはプラスチック製のカゴに、エレンから注文のあった野菜を収穫して回っている。
「だってお前、その辺に魔物がいたら狩るだろう。何かするまで待って人間に被害が出たらどうするんだ」
なあ、と聞かれたハンターが、まあな、と気まずそうに答える。本人はハンターの良識で来たわけではなく、悪魔に脅されて来たヘタレなので、ディーンが言うのとは意味が違うのだが。
「セロリ、ブロッコリー、人参、あとイチゴか」
「イチゴは今日じゃなくていいってさ。」
「わかった」
言いながらディーンがフーディだけで出かけようとするので腕を掴んで止めた。
「ディーン、帽子被って」
「日焼けなんぞしないぞ」
「紫外線のダメージがあるんだよ。あと、指先が傷むから手でむしらないでハサミ使ってね」
「あー、なるべくな」
「なるべくじゃなくて」
言い募ると、振り返ったディーンが腕を払って、久々に険しい声を出す。
「うるせえな。傷がつくだの汚れるだの、人形かよ」
振り返った拍子にフーディ―が脱げ、横で見ていた馬鹿がぽかんと口を開ける。
そうだろう、そうだろう。サムは内心で胸を張る。
うちの兄はもともと整った外見をしていたが、日頃の手入れは雑だった。だがここ数年、サムが様々な方法でメンテナンスを続けた結果、肌も髪も瞳も睫毛も、ものすごくコンディションがいい。
最初の頃につけてしまった全身の縫い目が、最近本当にきれいになって、すごいだろうと見せびらかしたいのだがさすがにそうもいかない。事情を知っているホビーならいいかとちょっと話を振ってみたが、「プライヴェートゾーンってもんを考えろ」と怒られてしまった。たしかにそうだ。法学部だったのに失念していた。
最近はカラーコーディーネートも意識して服を選んでいるので、ますます見栄えがする。はっきりいってゾンビに見えないどころか人間基準ですごい。
だからつい、少しの傷も汚れもつけたくないと思ってしまうのだが。ここが難しい。
「サム」
「え?」
気が付くとディーンが目の前にいて、ものすごく嫌そうな顔をしている。
「さっきから全部声に出てるぞ、お前」
「ほんと? ごめん」
謝って帽子を被せると長いため息をついて菜園の方に行ってしまった。ちゃんと帽子を脱がずに被って行ったので、まあいいかとそのまま見送る。
菜園の草むしりを夕方まで続けてから、収穫した野菜を持たされて解放されたハンターは、事情を知った同業者達に、
「何やってんだお前」
と色々な面で馬鹿にされた。
「で? どうだった、ウィンチェスターの様子は」
そう訊かれた若いハンターは、
「いや、兄のゾンビは言うことがまともで、弟はやばい奴で、何だか距離感が変だった」
と答え、古株たちは、
「いつも通りだな」
と頷いたのだった。
[10回]