引退したウィンチェスター兄弟が開いた酒場は、相変わらずそれほど儲かりもしないが大きな危機もなく続いていた。
「つまんねえなあ」
カウンターでグラスを磨きながらディーンがぼやいた。フロアのテーブルで事務仕事をしているサムは、
「また?」
と振り向きもせず声だけで返事をする。弁護士業もぼちぼちとした受注で、暇すぎもしないが多忙というほどでもない。兄弟は相変わらず二人だけで働き、店舗の二階で寝起きしていた。
場所代と人件費という二大支出がないことは引退後の経済的安定に大きく寄与していて、二人の生活はここのところ波風のない平穏な日々が続いていた。不安がないのは結構なことなのだが、困ったことに平穏は退屈につながりやすい。
サムの方はそれでも仕事柄外に出る用事が多いので色々と気が紛れていたが、ディーンは下手をすれば昼も夜も店の中だ。
「退屈だからって妙な事考えないでよディーン」
「わかってらあ」
テーブルに肘をついてペンをくるくる回しながらサムが言うのに、ディーンはいつも通りの返事をする。もう何度となく繰り返しているやり取りだ。
運よくそろって五体満足で引退した時、二人は話し合って決めていた。
もう今後は天使やら悪魔やらには関わらない。他人の狩にも手を貸さない。
ちょっとだけ、と思って狩に関わると、あっという間に深みにはまって、高い確率で兄弟のもう片方が死ぬとか知り合いが殺されるとか世界が滅びるとか、自分の命だけですまない事態に陥るからだ。何度繰り返して何度後悔したか、もう数える気も起きない。
とは言うものの。
ディーンはカウンターの端に置いてあるファイルボックスをちらりと見た。ハンターの出入りが多い状態が続いているうちに、二人の店には自然と「何かネタはないか?」という客と、「誰か相談に乗ってくれないか?」という客が集まりやすくなっていた。そんな客同士が同時に店に来て話ができればいいが、そうそうタイミングが合うわけもない。暇な客は放っておけばいいが、困って相談にくる客が途方にくれているのを見ると元ハンターの心がむずむずした。ボックスはその妥協点だ。
「誰が見てもいいなら、連絡先でも置いてけよ」
先にそう言ったのはディーンだったが、ボックスをカウンターに置くにあたり、サムはきっぱりと、
「置いていくのは勝手だけど、仲介はしないし誰かが引き受ける保証もしない。資料を持っていかれてどうされるかも関与しない」
と念を押していた。
「どうせならしっかりした奴の方がいいだろうけどな」
「難しいよ。変に介入すると、どっちからも『紹介した責任を取れ』とか言い出されるから」
「ま、そりゃそうだ」
簡単かと思った相手が意外に手ごわくて、手を貸してくれと言われたりする可能性は大いにある。自分が声をかけていると断りづらい。
入れられるファイルには大体資料や連絡先が入っている。来た者はカウンターに置かれたボックスにそのまま入れ、飲みに来た客たちが雑誌のように席に持って行って読んでいた。たまにハンターでない一般の客も見ることがあったが、雑誌の記事のように読みやすく編集しているわけでもないので、ほぼちんぷんかんぷんだろう。ハンターが興味を持つと持って帰るが、何もつかめないとそのまま戻したりもする。逆に解決した場合には自分の資料としてそのまま持っていくことが多い。
今ボックスに入っているファイルは、自社の物件に変な影が出るという男が、「こういうのも相談できますか?」と数日前に置いていったものだ。何度か座席で読んでいる客はいたものの、結局カウンターに戻されていた。
「厄介なのか?」
何度目かの返却時にディーンが訊くと、
「逆だ」
と肩をすくめられた。細かくは聞かなかったが危険度や緊急度が低くて手間はかかるのかもしれない。ファイルを入れた客もその後何回か店に来ていたが、進展がないのを確認したり、追加資料を加えたりして帰っていた。
(ふうん)
いい加減グラスを磨くのも飽きたので、ディーンは暇つぶしにファイルの中身をパラパラと見てみた。確かにごく単純な案件らしいが、敬遠するほど手間がかかるようにも見えない。
「ディーン、そろそろ店開けるよ」
「おお」
サムが声をかけてきて、ファイルを戻す。照明を店舗用のものに切り替えBGMをつける。
今日も仕事の始まりだった。
夜が明ける少し前、喉が乾いたディーンは、水を飲みに下に降りてきた。しんとした店内に床のきしむ音が響く。カウンターの上に、昨日のファイルがあるのが見えた。
(まだあるな)
何となくカウンター下の引き出しを確認する。引退したとはいえ、何かあった時の備えはしている。ベレッタ、装填済みの散弾銃、塩弾の予備、塩の袋、油、聖水のボトル、魔除けの護符、銀のナイフ。ほぼ、狩りに行くときの装備と同じだ。
「………」
ちょっとくらいならいいかもしれない。