幼なじみ
1
研究室の古いブラインドから差し込む光が痛くて、サムは目を細めた。徹夜明けで乾いた目にはひときわ沁みる気がする。
法学部の研究会の準備は予定より随分と手間取って、結局チーム全員の徹夜作業になってしまった。
「やーれやれ、やっと終わった」
「じゃあ、週明けにな」
チームのメンバーもホッとしたようにあくびをし、目を擦りながら解散していく。
「コーヒー残ってるけど、誰か飲む?」
「あ、もらう」
コーヒーポットを持ち上げて確認する友人に、携帯をいじっていたサムは手を上げた。ほぼ一晩中保温にセットされていたのでだいぶ煮詰まっているが、あと少し起きていなくてはならない完徹二日目としては濃縮カフェイン大歓迎だ。
「俺のところで寝ていく奴いるか?」
大学の近所にフラットのある友人が声をかけるのに、何人かがふらふらと頷いている。
「サムは?」
多分一、二時間だけでも眠ったら随分と楽だろう。実に親切な誘いだが、サムは首を振った。
「いや、いいよ。帰って寝るから」
手を振ってナップザックを背負うと部屋を出る。あくびをしながら校舎の階段を降りると足を速め、一昨日バイクを停めた駐車場を大股に走り抜けた。
大学の敷地を抜けるとすぐ近くの路肩に黒い車が停まっている。見慣れたクラシックな車体にサムは思わず顔をほころばせた。
運転席の窓をノックすると、中で寝ていた男が目を開け、軽く伸びをしてからロックを解く。サムはそのまま助手席側に回るとドアを開けて乗り込んだ。
「お待たせ」
「おう」
短い返事を返した男は、ちらりとサムに視線を向けると小さくあくびをしてキーを回した。
「ごめん、休日に」
サムがそう言うと、目だけ振り向いた横顔がニヤッと笑う。そして手が伸びてくると、軽く髪の毛をかき回された。
「寝てろよ。着いたら起こしてやるから」
「うん」
ディーン・ウィンチェスターは隣人だ。サムがまだごく小さいころに、向かいの家に越してきた。四歳年上の彼は、つまりサムの幼馴染だ。最後に会話を交わしたのは九時間ほど前の屋上だった。
『やっぱりまだ時間がかかりそうなんだ。でも朝までには片付くから、午前中には帰れるよ』
『そりゃいいが、寝不足でバイクに乗るのはやめとけよ』
『でも、早く帰りたいし』
『迎えに行ってやろうか』
『え……いいの?』
『起きられたらだけどな。終わったらメールしろよ』
兄弟のいない一人っ子のくせに、ディーンはやたらと面倒見がいい。特にサムに対しては昔からやたらと兄貴ぶってなにかと世話を焼いた。子供の頃はともかく、十代も半ばになってくるとそうやって構われるのがサムは大嫌いで、なにかと噛みついてきた。
だが今は事情が違う。
髪の毛を撫でる手を掴むと引き寄せ、ごつい指輪のはまった軽く指に唇を寄せる。
「おい」
「なに?」
横目で睨まれるのに笑い返すと、ディーンはそれ以上何も言わずに手をひっこめた。
今サムが相手の好意に素直にうなずけるのは、最近変わった関係のせいだった。
夜が明けてすぐの道路は空いていて、黒い車はほとんど止まらず滑らかに走る。エンジンの音だけが響く車内で、サムは強い眠気に襲われ、でも眠ってしまうのは惜しくて必死に目をこじ開けた。ふとシートに放り出されている本を見つけて取り上げる。
「……なにこれ」
パラパラとめくると、エンジンやらオートマチックトランスミッションやらの単語が並んでいた。ディーンの仕事関係のものだということだけはわかるが、サムはその方面には弱い。
「試験でも受けるの」
「……寝てろって言っただろうが」
話しかけるとそっけない返事が返ってくるが気にならない。振動の少ない運転や、音楽もラジオも流さない車内、低く静かに話す声全部が、自分を気遣ってくれているのがわかるからだ。
「うん、そうなんだけどさ」
「寝ろよ」
「……うん」
目を閉じると穏やかな振動と相まってあっという間に眠りそうになる。しかしちらりと隣を見れば、ハンドルを握る端正な横顔が目に入り、やっぱり見ていたいなとサムは目を擦る。少し伏せられたまつ毛がディーンの頬に影を落としていた。
子供の頃、ディーンの髪の色は明るいブロンドだった。今はダークブロンドになり短く刈り込んでいるが、光に透けると髪も睫も金色に光る。
きれいだな、とふわふわした脳内で思った。
サムがメアリと住んでいる小さな家と細い道を挟んだ向かいの古い家に、ディーンは四歳の時に父親と越してきた。だが、ディーンの父であるジョンは昔からほとんど家にいない。不在がち、というよりいない。だから小さいころ二人が一緒に過ごしたのは、主にサムの家だ。
サムとディーンは学校やキンダーが終わると毎日サムの家で過ごし、夕飯を食べ風呂に入り、サムが寝るまで一緒だった。寝る時間になるとサムはおやすみと言ってベッドに入り、起きるとディーンはいなくて母と二人で朝食を取る。そんな毎日が当たり前だった。
今から思うと、ジョンが帰るまで彼は毎日ずっとサムの家に預けられていたのだろう。
養育者としてどうなんだ、と法律を学ぶようになったサムはちょくちょく思うが、ディーンがサムの家に毎日いたこと自体には文句を言うつもりはない。よくぞあそこまで毎日、週末も含めて留守にしてくれた。
並木道を抜けて角を曲がり、互いの自宅に近づいた時、サムは普段見かけない車が、ディーンの家の前に停まっていることに気づいた。
「ディーンのお父さん、帰ってるんだ」
「ああ、昨日の夜な」
「……じゃあ、もしかして今日の予定はキャンセル?」
思わず声が尖ってしまったのに、ディーンは気づいただろうか。
今日は映画を観に行って、一緒に外で食事をしようと約束していた。だが子供のころからディーンはめったにない父親との時間をとても大切にしていて、たまの帰宅があると、その日にどんな約束があっても反故になる。サムとディーンは昔からそれで何度かもめていた。
小さい子供の頃ならわかる。親がそばにいて嬉しいのは当たり前だ 。だが、ディーンは二十台半ばを過ぎてもいまだに父親がいると露骨に目がキラキラするし、何のかの言いつつそばにいたがる。
「ディーンってファザコンじゃないの」
ハイスクールの頃に面と向かって言ったことがある。十代のサムとしては非常にぎりぎりの酷いことを言ったつもりだったのだが、
「わりいかよ」
と本人にあっさり肯定されて絶句した。
これはきっとあまりにも幼少期に放置された反動だ。前言撤回、ジョン・ウィンチェスターはせめて週末は息子との触れ合いを持つべきだった。
今日もサムがばか高い店の予約でもしていれば粘りようもあるが、まずはひと眠りしてから出かけるつもりだったので映画も食事も時間を決めていない。レアキャラに対して、毎日いて当たり前のサムは圧倒的に不利だ。
もしかして、その穴埋めとして迎えに来てくれたのだろうか。
そう思い付くと先ほどまでのふわふわと幸せな気分が一気にしぼむ。だが、しぼみ切る前にディーンの声がした。
「別に無しにすることないだろ。親父にも夜は出かけるって言ってあるし」
「ほんと?」
確かに子供同士の約束ならともかく、大人になってからはディーンが自分の予定を優先することも増えていた。だが、サムが見ていた限り、優先枠に入るのはいわゆるデートで、それ以外の時はバーへの誘いやパーティなどは、なんのかんの言って止めて家にいたように思う。そう考えると自然と顔が緩んでしまう。
「なんだよ。にやけた顔して」
「だって嬉しいからさ。ディーンと久々のデートだし」
「なんだそりゃ」
けっと吐き捨てるような口調で言われるが、耳が少し赤い。どうも自分では気づいていないらしいその体質は、ポーカーフェイスが得意でふてぶてしい幼馴染の数少ない可愛げだとサムは思っていた。
そうこうしている間に車は家の前に停まる。
「ほら、着いたぞサミー坊や。結局ずっと起きてたなお前」
ディーンが呆れたような口調で言う。
「だって寝ちゃうのが惜しかったからさ」
「なんだそりゃ」
「研究会準備でずっと会えなかったし」
「馬鹿かお前、二日寝てないんだろうが。明日まで爆睡してもしらねえぞ」
「う……」
さすがにサムが否定できずに詰まると、ディーンがふふんと笑った。
「ほら、降りろって」
ハンドルに凭れて笑う顔。短く切った髪が朝の光で金色に透ける。
「……キスしていい?」
「おやすみのか?」
わざとらしく眉を上げて返されるが、拒否ではないので素早く運転席側に身を乗り出す。ちゅ、と軽い音を立てて唇の端に口づけた。
「おい」
眉をひそめて周囲を気にする幼馴染に、
「ありがとう、後でね」
とにっこり笑いかけると助手席のドアを開けた。
いいじゃないか。子供時代は終わり、いまや自分達は交際しているのだからキスくらい。
サムがディーンに告白したのは数か月前だ。はっきり言って玉砕覚悟だった。
小さいころから人付き合いが良くて男からも女からも人気のあったディーンは、それこそエレメンタリーの頃からとっかえひっかえ色々な相手と付き合っていた。誰かと一緒に歩いているディーンの姿は見慣れていた。
そんなサムが最初に危機を感じたのは、ディーンが高校を卒業した少し後だ。
「ディーンはこの先どうするの?」
ある日夕飯を食べながらメアリが何気なく尋ねた質問に、ディーンはチーズとパスタのキャセロールを口いっぱいに詰め込みながら答えた。
「今考えてるんだ。親父は『この家に住み続けてもいいし、好きな街に住んでもいい』って言うんだよな」
「あら、そうなの」
「確かに、大きい街の方がでかい整備工場とかも多いんだけどさ」
「そうねえ。お給料は?」
「やっぱいいんだよ。だけど家賃がかかるだろ」
和やかな夕食時の団欒なのだが、横で聞いていたサムは血の気が引いてめまいがした。
毎日一緒にいた幼馴染が、目の前からいなくなるかもしれないと思ったのは初めてだったのだ。
しかし結局ディーンはバイトをしていた車の整備の店でそのまま働くことにしたので、サムの危機感は喉元を過ぎてしばらく忘れ去られた。
次にサムが青くなったのが数年後、ディーンに結婚を考える恋人ができた時だ。快活で頭もよく気の強い恋人にディーンは夢中で、「相手の両親」だの「結婚」などという言葉が何度か食卓の話題に上がり、サムは大学進学時期だったことも重なってストレスで胃が痛むというのを初めて体験した。ディーンも彼女もこの町で働いていたから、彼らが結婚してもこの町からいなくなる可能性はほぼなかったが、それを考えても一向に胃痛は軽くならなかった。ラフな服や古着ばかり着ているディーンに対して、
「たまには真面目な恰好をしたら」
と常々言っていたサムだったが、ディーンが彼女とのディナーのために誂えたスーツ姿を見せに来た時には、
「変な恰好、全然似合わない」
とつい口が動いてしまった。当然ディーンはむっとしていたが、実際のところはもちろん髪を整えてタイを締めた幼馴染はまぶしいくらい綺麗で格好がよかった。
そのあたりになるとサムは次第に自分の感情を自覚してきたのだが、ほどなくディーンが恋人の逆鱗に触れて振られてしまったため、再び危機は回避された。
しかし続く危機はサム自身から生まれた。大学生活も三年を過ぎたが、弁護士を志望するサムは、ロースクールに進む必要がある。いくつか希望の学校があったが、どこも遠い。大学までは今の家から通えたが、進学がかなった際には引っ越す必要があった。
一般的なロースクールは三年課程だ。遠い街にはなれて三年。絶望的に長い。
そんな焦りに背中を押されての告白は、いっそけりをつけたいという気持ちもあった。
なにせディーンが付き合った相手は総計何人いたか計測不能だが、少なくとも男はいない。だから冗談に紛らわされて振られる可能性が八割、真剣にドン引きされて拒否されるのが二割、さっさと諦めて勉強に集中しよう。そんなやけくそ気味の思いも強かった。
しかしサムが好きだから付き合ってほしいと言った時、ディーンの返事は簡単だった。
「いいぞ」
「………」
あまりにも早かったので、サムは相手が何か聞き間違えたのかと思った。サムは新作映画を観に行くのに付き合ってくれと言ったわけではない。
「ちゃんと考えて答えてほしいんだけど」
「考えるって何を」
「だから、僕が言ってる「付き合う」って、どういう意味か分かってる?」
サムとしては真剣に追求したのだが、途端にディーンの顔が(馬鹿かこいつ)と言いたげなものになる。
「おれが、お前に、そっちの方面で教わることはねえよ」
へっと鼻まで鳴らされる。
「僕が言ってる好きは、ディーンにキスしたいって意味の好きだよ。できる?」
この際だとさらに具体的なことを訊いてみたら、いきなり襟元を掴まれて引き寄せられ、ひょい、と実にあっけなく口同士が触れた。
「……………!」
「大丈夫じゃねえか?」
実にあっさりと言われ、さすがそっち方面の先輩は確認が早いというか、軽すぎてムカつく面もあったが、サムとしては今度こそ本当に自分の意図が正しく伝わっていることを確信できた。
2
サム・キャンベルは昔からこまっしゃくれた子供で、だがディーンは昔からこの年下の幼馴染がお気に入りだった。
子供の頃はひっきりなしにあちらこちらを移動する生活をしていたが、ある日車から降りると、白い家の前で父が言った。
「今日からここが新しい家だ」
「いつ頃までいるの?」
「これからずっとだ」
「ほんと!? もう引っ越さないの?」
そして挨拶に行った向かいの家で、優しそうな女の人と小さな可愛い赤ん坊に会った。そっと差し出したディーンの指を、小さな指がぎゅっと握り、それを見た女の人が、
『よろしくね』
と微笑んだ。その時のうれしさと、指に感じる体温と、笑う赤ん坊のふくふくとした頬っぺたの感触は今でも覚えている。
可愛かった赤ん坊のサムはちびっこになっても可愛かったが、ティーンになると次第につんけんした言動が多くなり、ディーンの後をついてくることもなくなった。小さかった背もひょろひょろと伸びて気づけば見下ろされているし、あーとかうーとか可愛い音を発していた口は、いまや理解不能な法律用語を並べ立てるようになった。
その可愛げをなくして突っかかって来てばかりいたサムから、思いつめたような告白とアプローチをされたのは数ヶ月前だ。ディーンはそれまで結構な数の相手と付き合っていたが、その中に男はいなかったし、サムだって同様だったはずだ。
だが青天の霹靂ともいえるはずの告白は、ディーンの中に意外なほどあっさりと落ちてきて、脳が理解する前に口が、
「いいぞ」
と動いていた。
思い返すとあの速さは自分でもどうかと思う。案の定サムも、喜ぶ以前に不審そうな顔になって、
「ちゃんと考えてから答えてくれ」
とダメ出しをしてきた。
もっともだと思ったディーンはもう一度改めて考えた。
サムが自分のことを好きだという。付き合いたいと言う。ずっと一緒に居たいと言う。
「……………」
何度反芻して考えても『嬉しい』しか浮かんでこない。
ディーンは悩んだ。俺の脳みそはどこか壊れたんだろうか。何かつながらなきゃいけない回線がふさがってるんじゃないだろうか。 この場合、考えるべきことは何だ。
「……………」
「ディーン、何考えてるの」
今度は結構長い時間難しい顔で沈黙していたらしく、不安になって来たらしいサムに悲壮な顔でゆすぶられるまでディーンは反芻を繰り返していた。
それ以来、頭の回線は壊れっぱなしだ。
ディーンは帰って来た自室でパラパラとテキストを開く。ブレーキとABSシステムについての項目を読みながら、ちらりと向かいの家を見た。
カーテンの閉まったその二階の部屋で、今頃サムは熟睡しているのだろう。新しい関係になって以来、サムはディーンの伸ばす手に素直に甘えるようになった。久しぶりに良く笑うし、一緒に居たがるのが可愛い。
はっきり言って自分は今、かなり浮かれている。大丈夫か、と我ながら心配になるほどだ。だけどそれを止める理由も方法も思いつかないのだ。