ウィンチェスター商会の本社は、石造りで年代物の建築物だ。IT関連企業のイメージとしては違和感があるが、重厚な雰囲気は悪くないと創設時のまま使われている。その一室で、社長であるサム・ウィンチェスターは朝から部下と向かい合っていた。
「この転属願いだが許可できないな」
「なぜ? 無能で使えないと言っていただろう」
デスクを挟んで立つ背の高い男は、部下らしからぬ表情で上司を見下ろしている。
「それは事実だろう」
「ああ認める。だから元の部署に戻して欲しい」
「だめだ」
「なぜ?」
「わかっているだろうが、今僕の立場は微妙だ。このタイミングで第一秘書が転属願いを出したら、余計な勘繰りを生む」
「事実をそのまま言えばいいだろう。役に立たないから交代させるんだと」
「そう、君は秘書としてはまったく無能だ。でもそんなことは端から分かっていたことだ」
その言葉に現在社長付き第一秘書のディーン・ウィンチェスターは顔をしかめる。
「それはそうだろう。お前が自分で引き抜いたんだからな」
明らかに上司に対する口調ではないが、サムも頓着しない。その目が微かに笑ったようで、ディーンはこの男に誘いをかけられた時のことを思い出した。
『ねえディーン、僕の秘書になってよ』
『はあ? なに言ってんだお前。できねえよ秘書なんか』
『仕事は大丈夫、ボビーとキャスがフォローしてくれるから』
二ヶ月前だった。
営業部でチームを率いていたディーンは突然呼び出され、社長に就任して一年のサムに無茶な依頼をされたのだ。サムの顔は悪巧みをしようと誘うような笑顔だったが、冗談はよせと笑い飛ばせない雰囲気を感じた。
全く畑違いの部署にいた自分を秘書に、しかもほとんど常に行動をともにする第一秘書にするなど、常識からいえばありえない。もちろん、そんな誘いに乗ることもありえない。だから他の連中に難癖をつけられるのは承知の上だった。無茶や難癖は承知の上で、近くにいてくれ、と言われたと思っていた。それがだ。
「経験がないのは分かっているけど、目に付くと指摘したくなるだけだ。気にするな」
「気にしないわけがないだろう。……お前、本当に事故以来変わったよな」
「……」
サムは微かに眉を上げ、しかしなにも言わなかった。
彼は先月大きな事故にあった。親族の墓参りに行った折り、突然墓地の一部が大きく陥没し、サムは落ちかけた従兄弟を庇って一緒にその穴に転落したのだ。
幸いにも大きな外傷は無く救出されたが、意識を取り戻して以来、どうも人が変わってしまった(ちなみに原因になった従兄弟、アダムは性格も変わらずぴんぴんしている)。
仕事や判断力に支障はない。むしろ上がった。
父親から会社を受けついだ二代目である彼は、十分な能力はあるが情に流されやすいところがある、というのが一年を過ぎての大方の評価だった。なので、当初彼の変化はむしろ「リーダーとして好ましい変化」と周囲に受け取られていた。
だが日がたつにつれ、何か変だという囁きが周囲から起こり始めた。よく言えば情に流されにくくなったが、自他の区別無く感情的なものへの配慮が極端に減り、過剰なまでに辛辣になった。
今では彼の密かなあだ名は「黒サム」または「ロボサム」だ。
「これからも目についたら無能ともバカとも言うだろう。でもそれでディーンをくびにしたり減給するつもりはないから心配いらない」
「心配なんざしてねえよ。引っ張った当人にくそみそに言われんのが不愉快だから戻してくれと言ってるんだ」
「だめだ」
「なら退職する」
その瞬間サムが沈黙する。見る見るうちに表情が険しいものになった。
「……やってみろ。あらゆる手を使って、国内どこにいってもまともな職につけなくしてやるぞ」
低く唸るような声に、今度はディーンが沈黙した。
サムにそれが出来ることは知っている。下手をすれば国の中枢部まで繋がるつてがあることも。だがしかし、本気で言っているとすれば問題だ。一族の切り札を秘書人事に使ってどうする。不安になるより脱力した。
「……お前、やっぱり頭打って馬鹿になったな」
思わずため息が漏れる。そんなことをしたら微妙な立場どころか、すぐさま対立派閥の取締役達が嬉々として「リーダー失格」の烙印を押しに来るに違いない。対立派の重鎮であるサミュエル・キャンベルの剥げ頭が、チラリと脳裏に浮かんだ。
目の前の男を見る。眉間どころか額や首にまで青筋を立て、イライラした表情を隠そうともしていない。
いつか戻るのだろうか。あの賢いくせにどことなく子供の頃の面影を残していたサムに。
この超合金のようなロボサムにしても、カンに障ることは多々あるが、失脚してしまえとまでは思えない。創始者の直系とはいえ、一度失格の烙印を押されれば、再浮上するのは難しい。
そう思う程度にはディーンはこの年下の幼なじみが大事だった。
子どもの頃、サムとディーンの家は道を挟んだ向かいだった。先代社長であるサムの父親が不在がちだったこともあり、彼はディーンの母に預けられていることが多く、小さい頃はそれこそ二人は兄弟のようにして育ったのだ。
サムが大学に入って以来は、ほとんど顔を合わせることはなくなっていた。その彼が自分に来てくれと言うのに、ディーンが強く動かされたことは確かだ。
サムの青筋が少し収まる。ディーンの表情から、読み取るものがあったのだろう。彼はそういう交渉めいた時の表情にはむしろ敏感になった。
「わかったなら話は終わりだ。昼前には外出する。ボビーから仕事内容を聞いておいてくれ」
声から感情が消え、空々しいほど穏やかな声に変わる。サムが決してディーンと二人の時には使わなかった仕事用の柔らかい話し方だ。
「……わかりました」
なのでディーンも個人として話すことをやめ、仕事用の口調に切り替える。瞬間、サムの眉が上がるが、その口がなにかコメントすることはなかった。
「思いとどまってくれてよかった」
第三秘書のカスティエルが無表情に言いながら、今日の予定をまとめたファイルを回してよこす。
「今日はダメだったが、機会がありゃまた希望を出すさ」
ディーンはウンザリしながらリストをめくる。ディーンが元いたのは営業畑だ。秘書の業務は色々と勝手が違いすぎて未だに慣れない。
「よしてくれ。またボスが荒れる」
随分と実感のこもった声を出されてディーンは視線を上げる。この先輩秘書はいつも大体陰鬱な顔だが、眉間の皺を五割増しにしてこちらを見ていた。
「だってなあ……。呼んだ本人がバカだ無能だ罵るんだぜ。やってられるか」
「それでも君を傍に置くことにはこだわっている」
「俺が言うのもなんだが、あんた達も畑違いの奴が消えたほうがやりやすくないか?」
実際に世話をかけている同僚の前で愚痴れたものではないのだが、無愛想な割にカスティエルには何故か弱音を吐きやすい雰囲気がある。密かに流布するあだ名は『神父』だ。
「君が傍にいなくなると、ボスは周囲に見境無く攻撃をしかけだす。しかも君相手より二倍たちが悪い」
「まじかよ……」
「君が彼の視界に入ると治まる。君には悪いがボスが落ち着くまで、神経の丈夫な君が避雷針になっているのが一番周囲への被害もコストも少ない。ひいてはボス自身のトラブル回避にもつながる」
「避雷針ね……」
率直過ぎる言い方に苦笑した。
サムが元々自分を傍に置こうとしたのは、ストレスの多い立場の彼が、警戒の要らない話し相手が欲しかったのだろうと思っていた。今のサムにはいつでもズケズケ攻撃できるストレス発散用サンドバッグとして使われている気がするが。
「無駄口きいていないで、行くぞ。もう車が来てる」
後ろから第二秘書のボビー・シンガーがせかした。
ウィンチェスター商会は、その名の通り同族会社で、一族の者が異様に多い。本社も社員の半分以上は「ウィンチェスター」なので、覚えやすいがややこしい状態だ。
そんな中ボビーはウィンチェスター以外の姓を持つ希少な生え抜き社員で、事実上秘書達の統括をしていた。
「悪い、すぐ行く」
手早く荷物をまとめる。秘書本来の役割を果たしているのはボビーとカスティエルだ。自分の期待される役割がロボサムの破壊光線が周囲に及ばないための避雷針であるとしても、同僚に過剰な迷惑をかけたいわけではなかった。
通り抜けざま、ぽん、と肩を叩かれる。ふと見た視線に労わりを感じて、ディーンは目を伏せた。ボビーは、多分以前からサムとディーンのいきさつに気付いている。
ことによるとサムはボビーに相談して、営業部の自分を秘書に引っ張るなどという荒業に踏み切ったのかも知れないとも思う。
頼みのボスが冷血になっても、同僚達は変わらずに面倒見がいい。
こうしてディーンはロボサムの側近を辞め損ねたのだった。