自分のやってきたことを振り返ると、見事に失敗と裏目続きだったとトムは思う。
そもそも生まれた炭鉱の町の気風が性に合わなかったのに、トムは炭鉱主の息子だった。それでも父の息子として一通りのことはやってみせなくては、と肩肘を張って現場に入ったはいいが、初日に大事故を引き起こした。
そして続いたあの惨劇だ。炭鉱に閉じ込められた鉱夫の一人であるハリーは空気が無くなる恐怖から他の仲間たちを惨殺し、救出された後のも手当たり次第に周囲の人間を殺し続けた。ハリーはもともと気の荒い偏屈な男だったが、そうなった原因を作ったのはトムだった。
トムは事件のあと悪夢にうなされるようになり、父は最初心情的に、それから物理的にも跡取り息子としてのトムの存在を抹消した。トムは帰ってくるなと告げられて療養所に送られ、白い壁の中で十年を過ごした。だが黒い影を忘れようとしても悪夢はしつこくつきまとってきたし、父が死んでやっと故郷に戻り、今度こそ戦おうとしたら見当はずれの空回りをしただけだった。取り返しのつかない罪をいくつも犯し、もう帰るところはどこにもない。
ああそうとも。俺は罪人だ。
トムの人生は、炭鉱に初めて入った二十歳前のあの日である意味終わっている。そして悪夢はいまもトムの影のようにぴったりと張り付いている。
ハニガー炭鉱の息子であるトム・ハニガーの存在などもう誰の頭にも欠片もないだろうが、「血のバレンタイン」の惨劇が忘れられる日はこないだろう。
だからこれは報いなのだろうか。それともやることなすこと失敗続きの自分が最後に掘った墓穴か。
がらんとした部屋の中には薄いマットレスが置かれているだけだ。
転がって見上げる窓にはカーテンもなく、空は曇っている。
不意に足音が響いて、トムはびくりと体を震わせた。このフロアは無人だ。もしかするとビル全体がほとんど無人なのかもしれない。この古いビルに連れてこられた当初は、同じような不法入居者がチラホラいたはずだが、夜毎繰り返される異様な物音に慄いたのか、いつのまにやら周囲に人の気配を感じなくなった。だから、足音がしたらそれはまず間違いなくあの男だ。
逃げたいわけでもないのに立ち上がると、足枷に付けられた鎖が鈍い音を立てた。足音が近づき、扉が開く。
「二日ぶりだね。大人しくしてた?」
大柄な体格に不釣り合いなほど子供っぽさを残した顔。
「クレイ」
トムは掠れた声で呟く。恐れつつ待ちわびていたトムの飼い主は、二日の放置を気にした様子もなくニコリと笑った。
「お腹すいたろ。食事買ってきたよ」
穏やかな声で言いながら抱えた紙袋を少し持ち上げてみせる。Tシャツの上にジャケットを羽織り、紙袋からあれこれ取り出している姿は、家の手伝いをしている学生か食料品店の気のいい店員のようだが、その目が笑わず、自分の様子を観察しているのをトムは知っていた。
「……今日もまた『彼』じゃないみたいだね」
しばらくの沈黙の後、クレイは肩をすくめてそう言った。
「残念。正直『トム』じゃつまらないんだけど」
「悪かったな」
「ほんとだよ」
トムの皮肉をあっさり聞き流しながらクレイは紙のカップを手渡してくる。
「なんだこれ」
「スープ。空きっ腹にいきなり重いもの食べるときついだろ」
「……ああ、そうだな」
うわの空で返事をしながらもどかしく蓋を外し、冷めた中身を一気に飲み込む。二日ぶりなのだ、味わうどころではない。
「ジュースじゃないんだから」
呆れたように言うクレイを睨み、
「くれ」
続けて他の包みに手を伸ばした。だが、
「もう少し待たなきゃだめだって」
と遮られる。二日も放置しておいて妙な気配りをすると思うが正直どうでもいい。空腹感が先だ。だが腕をとられてマットレスに座れと促され、トムは渋々従った。普段でもクレイの方が力は強い。食事を取っていない今日などはさらに分が悪かった。
「水飲む?」
ボトルを渡されて仕方なく口に運ぶ。半端にものが入った腹が大きな音をたてた。
クレイ・ミラーは変わり者だ。
トムが血のバレンタイン事件を引き起こした『ハリー』を身の内に住まわせていることを知っていて、トムをこの廃ビルで飼っている。
事件の後、故郷から遠ざかるにつれてトムの中の『ハリー』の凶悪度は下がっていた。この数年はトムの身体を乗っ取ることはあっても、血のバレンタインのような猟奇的殺人は起こしていない。しかし急に人格が変わって暴力的になる様はやはり尋常ではないし、そんなトムを見た人間は通報するか逃げるかだった。多少見てくれが良かったところで関わりを続けるような物好きはまずいない。
「やっちゃったよ」
ある日やってきたクレイは荷物を下ろすなりがりがりと頭を掻きむしった。
「どうした」
食料の袋を覗き込みながらトムが聞くと、
「ムカついた相手をついぶん殴った……」
と手をみつめて呻く。
「相手は生きてるのか」
「当たり前だろ!」
即答するので「なんだ」と肩をすくめた。
「じゃあ大丈夫だろう。警察呼ばれたのか」
「呼ばれてないよ。捕まったらここにいないだろ!」
怒鳴った後でクレイは肩をすくめた。
「…まあ、もう会わなければいいだけだ」
「そうか」
食べながらトムが頷くと、クレイが嫌そうな顔をする。
「すごくどうでもよさそうな顔だね」
恨みがましそうな声に少しぎくりとしながら視線を向ける。
「いや、お前が乱暴なのは元からだし、殺してもいないし警察も呼ばれてないなら、逆に何が問題だ」
そう言うとクレイがちょっと驚いた顔をする。
「…そういえばそうかも」
そしてちょっと笑って炭酸飲料のボトルを開けるとトムの隣に座る。
「さすがに逃亡犯は発想の基準が違うね」
「うるさいな」
答えながらトムは首をひねる。別に事件前の自分のこととして考えても、ちょっと殴られたくらいで騒ぐ奴の方が白い目で見られると思うのだが。